さて、小樽の住吉神社を後にして市街地へ来てみたら、普段の小樽に比べてなんだか人が賑わっていました。
ちょうどアーケードのところへ来た時に聞こえて聴こえてきたのは「ワッショイ!」という掛け声!
これはもしや!?と血が騒ぐ(笑)
この日はちょうど龍宮神社の例祭日でした!
御朱印はコチラ→ 御朱印 龍宮神社(りゅうぐうじんじゃ)

上から吊られてる幕のおじさんを覚えておいてくださいね。

鳳凰がはためいている!
ちょうど龍宮神社へ行こうとしていたので偶然例祭に出会すことができて嬉しかったです。
出店もたくさん出ていました。

小樽の初夏を盛り上げる小樽三大祭というのがあります。
相生町の水天宮、稲穂の龍宮神社、住ノ江の住吉神社で行われるお祭りです。
1週間ごとに例大祭があって、この期間はずっと賑わっていますよ。

『龍宮神社(りゅうぐうじんじゃ)』
所在地 小樽市稲穂3丁目22番11号
御祭神 底津和田都美神(そこつわだつみのかみ)
中津和田都美神(なかつわだつみのかみ)
上津和田都美神(うわつわだつみのかみ)
豊受姫命(とようけひめのみこと)
大物主神(おおものぬしのかみ)
大毘古命(おおびこのみこと)
桓武天皇(かんむてんのう)
社格 旧郷社
例祭 6月21日
鳥居 明神鳥居
社殿様式 神明造
【由緒】
当社鎮座の地は明治3年開拓判官岩村通俊が小樽の地に町名を付けるにあたって「イナホ町」と命名したものであるが、「イナホ」はアイヌが祭具として用いる「イナウ」から訛化したもので、この地はアイヌ民族が祭場としていた所であるとも伝えられる。明治2年国有地払い下げの折、榎本武揚は小祠を設けて榎本家の遠祖である桓武天皇を奉祀し、明治9年移民の安意を図るため「北海鎮護」の額を献納した。明治17年江差町に設置された教派神道の龍宮教会分所を同19年4月に当鎮座地に移転し、この小祠に合併し、龍宮殿と称していた。明治29年7月本間豊雄(初代社司)が土地・社宇一切を譲り受け、これを神社に寄付し神職として奉仕した。明治30年6月大和田津美神社と公称することが許可され、同31年4月龍宮神社と改称し、大正5年3月村社に列格した。同7年12月長橋町に鎮座していた小樽伏見神社を境内に移転し昭和3年9月郷社に昇格し、神饌幣帛料供進神社に指定された。大正15年造営会が組織され昭和16年社殿が改築されている。昭和21年宗教法人となった。
この神社も国道5号線から行くとわかりやすいです。
一の鳥居は住宅街にあり、そのまま路地を突き進むと本殿へ繋がる階段があります。


社号標にある「武揚建立」ですが”武揚”とは先程のアーケードの上から吊るされていたおじさんのことです。

例祭日なので提灯がたくさん。
明かりが灯ると風情がでてまた素敵なんでしょうね。
この階段を上がった先の正面と左手には空手道場とそれに関わる建物があります。
例大祭のこの日はイベント用に使われていました。
龍宮神社の本殿は右手にあります。

人、多し。
神社仏閣に関心の薄い方多い昨今は、こういった”お祭り”をキッカケに日本の文化に触れることはとても良いことだなと感じます。
中国4000年以上の昔から変わらず同じ王朝、そして今でも受け継いできてる日本の文化や風習が、逆に、何故今も受け継がれているのか?という部分に考察を巡らせてみて欲しいのです。
そこには絶対に何らかの理由があるに違いないと思うんです。
諸外国の文化が入ってきても、戦争で負けても、普遍的に残り続ける神の世界…


あ!ほら!右の方にもあのおじさん!
実はこのおじさん、榎本 武揚(えのもと たけあき)という江戸幕末~明治期の武士・幕臣、政治家で、小樽とは切っても切れない関係の偉人さんです。
元は幕末の徳川幕府の海軍のトップで、新政府軍との戊辰戦争の最後の戦いとなる箱館戦争を指揮した方です。
戊辰戦争、函館戦争と言えば新撰組のヒーローであり鬼の副長・土方歳三や局長の近藤勇、若きイケメン(という噂の)沖田総司を思い浮かべる方が多いと思いますが、このメンバーが仙台で榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流します。
数々の戦いで生き残った旧幕府軍と榎本らは共に蝦夷地(北海道)に渡ってきて、最終的に旧幕府軍は新政府軍に降伏します。
榎本武揚は、明治期には北海道の開拓を進め、とりわけ小樽の発展に尽力したということで記念銅像が制作され、龍宮神社の境内におかれています。
で、その銅像は撮り忘れました(笑)



境内の榎本武揚公の銅像の横に麻生太郎氏が正式参拝に来られたときに植樹された「オンコの木」があります。
麻生さん、榎本武揚公のファンなんですね(^-^)
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