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前回に引き続き、大和ミュージアム見学です。
前回の記事↓
舐めるように、それはもう舐めまわすように戦艦「大和」を見尽くして、次はこちらのコーナーへ。

「呉の歴史」。

ホッチキス?
あの文房具の?
って思ったらそうではなくて、フランスの”ホッチキス社”が開発した口径47ミリ砲でした。
なんや、会社名かい。

でも、もしや文房具のホッチキスって?…と気になって調べてみたら、文房具のホッチキスも”ホッチキス社”の製品でした!
日本で初めて販売された製品に「HOTCHKISS No.1」と刻印があったため、「ホッチキス」と呼ばれるようになったんだとか。
ただし、フランスじゃなくてアメリカの”ホッチキス社”と出てきました。
どういうこと?別々の国にたまたま偶然同じ名前の会社が?と、さらに調べてみたら、アメリカ人のベンジャミン・ホッチキスって人がフランスで設立した兵器メーカーが”ホッチキス(オチキス)社”で、この人の弟がアメリカで設立した”E・H・ホッチキス社”が文房具のホッチキスを売り出したらしい。
なんだよややこしいな。
知らんかったよね、そんなこと。
ここで文房具の名前の由来を知るとは…
ちなみに、ホッチキスの綴じ針の送り装置はマシンガンの弾丸送り装置がヒントだそうです。
賢いな!

戦艦「金剛」のボイラーにせっせと石炭を焚べる人たち。(メインは人じゃない)

ボイラーは模型かと思ったら、実際に使われていたやつみたいですね。
戦艦「金剛」は大正から昭和初期までの主力艦でした。

すごいサイズ感!
これに毎日石炭焚べてたらめっちゃいい筋トレになるな!(そっちじゃない)

このお弁当箱シブくていい…ちょっと欲しい…
あ、けど金属不足による「金属類回収令」で鍋まで持っていかれたのに、これらの物品は残されてたんですね!
こんな貴重なものをこれまで大事にキープしてくれた方にお礼を言いたいですね。お陰で私たちはこうしてその時代のことを知ることができています、と。

戦艦「金剛」はレイテ沖で戦った艦です。

よく見るとこの戦艦も相当イカつい!
ファイナルファンタジー7のミッドガル(わかる人いるかな?)ぽいのが船上に乗ってる!

海から引き上げられた、戦艦「大和」内の物品がいくつか展示されていました。

お茶碗、お酒の瓶、お風呂のタイル…
そこに乗組員の息を感じるようで、とても生々しい…

今でも戦艦「大和」は海底に眠っています。



3つに折れ海底に沈んだ戦艦「大和」。
船首の菊の紋章は形がくっきりと残っています。
そこだけ時が止まったような戦艦「大和」の姿…

「なぜ大和を引き上げないのか?」
そんな疑問を持つ人もいるでしょうが、まず引き揚げるには困難な領域であること、そして数百億円という見込みの莫大な費用がかかるということがあり、なかなか実行に移しにくい状態となっています。
また、遺族の方から「そのままそっとしておいてほしい」という要望や、「水中文化遺産」としての評価の高まりもあるようです。

戦艦「大和」での戦死者名簿を見ましたが、お名前の数がとてつもなくて胸が痛くなりました…

戦闘機などの模型も展示してあります。

よくいう「零戦(ゼロ戦)」というのは、皇紀2600年(1940)に正式採用されたためにそう呼ばれるようになりました。
2600の下二桁が「00」なので。
ということは…そうです、「九七式」(2597年採用)や「九八式」(2598年採用)やその他の年代の呼び名の機体もあります。

空母、「赤城」。
こちらも今なおミッドウェー海域の底で眠っています。

「赤城」の分隊長だった方が、真珠湾攻撃の時に使用していた飛行帽。
ここにあるってことは、この方は生還されたということかな。

(ここで言うのはちょっと不謹慎かもだけど、飛行帽ってなんか好き派)
空は「特攻隊」、海は「回天」…
若い戦士たちが自らの命を以って出撃していったことを考えると、色々な思いが駆け巡って胸が苦しくなりますね。
彼らがそうまでして守ろうとしたこの国を、私たちがどうして見捨てられるでしょうか。

日本はこれからも、「日本」でなければならない。
時代の流れによって他国との協調の必要を迫られても、「ここは”日本”で私たちは”日本人”だ」というアイデンティティを失ってはいけない気がしています。

戦後に日本に誕生した産業で、世界から定評があるのはやはり自動車産業です。
皆さんご存知の「マツダ」も、この広島で生まれました。

マツダの創業時の社名は「東洋コルク工業株式会社」で、1920年に設立。
その後、1927年に「東洋工業株式会社」に社名変更。
「マツダ株式会社」となったのは戦後の1984年。
1920年代に二代目の松田重次郎さんの決心で、機械工業へ本格的に参入しました。

今もマツダの本社は広島県の安芸郡府中町にあります。
日本の自動車産業の生産台数は、現在(2024年調べ)、世界第3位となっています。
1位は中国、2位はアメリカ。
中国との差は約4倍。
生産業は国の下支えでもありますから、日本政府には生産業の発展を目指してもらいたいものです。

『海賊と呼ばれた男』という小説、または映画を知っていますか?
この物語は実話を元にしたもので、主人公のモデルは出光興産の創業者、出光佐三です。
日本近代史の偉人といえば私はこの人を思い浮かべます。

出光佐三は、戦後の焼け野原で奮起して、アメリカのオイルメジャーに屈さず、危険をおかしながらも大きなタンカーでイランから日本に原油を運び続けた人です。
そのタンカー「日章丸」もこの呉で造船されました。

エネルギーなくしては生産業も人々の生活も成り立ちません。
日本の復興を大いに助けた人が、この出光佐三です。
戦後の何もない日本が、今このように不自由なく暮らせる日本になったのには、この人が一翼を担っていると言っても過言ではありません。

出光佐三については学校の授業で取り上げてもいいぐらいの人物なのに、戦後のGHQ統治によるプレスコードがまだ残ってるのか、こういう偉人の話には蓋をしてるようにも感じますね。
左派的教職員組合の日教組(とそこから分離した全教)がある以上、歴史の教科書は事実を事実として伝えることも、日本の誇らしい部分を伝えることも自由にいかないようです。

「大型資料展示室」では、本物の零戦などを見ることができます。

魚雷が思ってたより大きかった!

下の写真で手前にあるのが人間魚雷「回天」、奥にあるのが「零戦」で、どちらも本物です。

「回天」は、使われずにいた九三式魚雷を人が操縦できるように改造したものです。
これを、中尉や少尉らが構想し自分が出撃に向かうなんて訴えは、海軍も最初は却下し続けていましたが、戦局が苦しくなりとうとう採用されるに至ります…

空では操縦士が乗ったまま敵に体当たりする特別攻撃隊(特攻隊)で、多くの青年がその命を散らしました。
「特攻隊」の場合は、日本軍が組織的に戦死前提を任務とした部隊です。
空の「特攻隊」の場合は志願を募りますが、当然、誰か一人が志願すれば自分も志願せざるを得ない、という空気感が生まれます。(自身も旧日本陸軍だった山本七平氏による「”空気”の研究」という本がとても興味深いので、ここでお勧めしておきます)
そうやって、片道の油だけを乗せて彼らは飛んで行きました…
純粋に、「国のために」「愛する人たちの未来のために」という想いを胸に抱いて飛び立った人もいたかもしれない。
そうであってくれる方が後世に生きる私たちも幾分気持ちが楽にはなります。
でも、できれば誰だって、愛する人と離れたくないしこれから先も一緒に過ごしたい、子供の成長を見守りたい、そう思うのが普通です。当たり前のことです。
例え身寄りがなかったとしても、やはり死ぬのは怖いですよ。それも自ら…なんて。
陸軍の沖縄特攻作戦では17歳から32歳の隊員が参加。平均年齢は21.6歳。
とてつもなく辛くてやりきれない気持ちになります。

こちらの零戦は操縦中に、エンジントラブルで琵琶湖に不時着した機体です。
明治基地(現・愛知県安城市)第210海軍航空隊所属機で、昭和53年に琵琶湖から引き揚げられました。(もちろん整備や補修はしています)
機体記号の「210-118」は、第210海軍航空隊所属の118号機という意味。

現代の戦闘機と比べ意外と小ぶりなサイズにも感じます。(乗ったことないけど)

現在、大和ミュージアムは2026年3月末までリニューアル工事を行なっており、閉館中は呉市中通1丁目1-2の「ビューポートくれ」にて、「大和ミュージアムサテライト」が代替の仮展示室として営業中です。
そちらでは零式観測機の登場体験も行っています。(気になる)

上からだと機体全体が見渡せますね。

大和ミュージアム内を一通り全部見学して、ふと上階のテラス(というかベランダ?)に出ると正面にコレ!!

巨大な潜水艦!!!
こちらは海上自衛隊呉史料館、通称「てつのくじら館」。
入場料無料な上に現役を卒業したこの潜水艦の中にも入れるそうで、これは行くしかない!とこの後さっそく向かいました。
その様子は、広島シリーズラストとなる次の記事でレポートします!
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