神社・仏閣ランキング
ポチポチしていただけると喜びます
九州の神社巡り3日目、筥崎宮の次に向かったのはこちら。
宗像大社!
ここも訪れてみたかった神社のひとつ。
この日のラストを飾る神社へは、どうしても陽が傾く前に到着したい!絶対に遅れるわけにはいかない!
モタモタしてられないので参道は早歩きです。
地図で宗像大社を見ると、神社にしては珍しくピッタリ北西の方角を向いています。
なぜなのか?
実は、宗像大社は、天照大御神の娘(天照大御神と素戔嗚尊の誓約<うけい>で生まれた)である三女神の田心姫神(たごりひめのかみ)を祀る沖津宮(おきつみや)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る中津宮(なかつみや)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を祀る辺津宮(へつみや)の三宮の総称で、福岡県にあるこのお宮は辺津宮にあたります。
この辺津宮から海を隔てた北西には大島という島があり、ここにあるのが中津宮。
更にそこから北西にずーっと行ったところにある、沖ノ島という小さな島に沖津宮があります。
これらの三宮は一直線に並んでおり、辺津宮が向いてる方向は中津宮と沖津宮の方角になるわけです。
特に、沖ノ島は女人禁制で、島全体が御神体。
古来より「お不言さま(おいわずさま)」とも呼ばれ、島に立ち入り見聞きした事を口外してはならないことになっています。
男性の神職でも、禊をしてから島へ上陸する決まりとなっています。
宗像大社で祀られる田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神は、三柱まとめて宗像三女神(むなかたさんじょしん)と呼ばれ、中でも市杵島姫神は七福神の弁財天と同一視されることもあり、キラキラ女性(笑)に人気があるんですよね、なぜか。
『宗像大社(むなかたたいしゃ)』
所在地 福岡県宗像市田島2331
御祭神 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
社格 式内社・旧官幣大社・別表神社
例祭日 10月1〜3日
鳥居 明神鳥居
社殿様式 流造
【由緒】
宗像大社は、日本神話に登場する日本最古の神社の一つです。御祭神は、天照大神の三女神で、沖津宮、中津宮、辺津宮にそれぞれ祀られ、この三宮を総称して、宗像大社といいます。
・田心姫神 たごりひめのかみ
・湍津姫神 たぎつひめのかみ
・市杵島姫神 いちきしまひめのかみ
『日本書紀(720年)』には、天照大神から宗像三女神へ「歴代天皇をお助けすれば、歴代天皇が祀るでしょう」という言葉が残されています。これは宗像が日本における最初の国際港であったため、海外との外交、貿易、国防的な機能を果たせば、天皇が祀るとされ、それは沖ノ島から出土した約八万点の国宝からも国家祭祀の痕跡が裏付けています。
国家祭祀とは、天皇の遣い、勅使(ちょくし)が現地に赴いて、祭りをするというものですが、宗像における国家祭祀は出土した国宝の品々から、かなり大規模ではなかったかと推測されています。沖ノ島の出土品は四世紀から九世紀のものが多く、その間、国家祭祀がどの程度行われたかは明確ではありませんが、古い記録などからも天皇の勅使が宗像に遣わされたことを知ることができます。(宗像大社HPより)
御朱印はこちら↓
宗像大社は記紀に由緒が記された日本最古の神社の一つ(他には石上神宮、大神神社なども日本最古と言われる)で、世界遺産にも登録されています。これにはエジプト考古学社の吉村作治さんが尽力されたとか。
ただ、記紀においては宗像三女神が化生した順が統一されておらず、古事記では、
・沖津宮 ー 多紀理毘売命(たぎりひめ)
・中津宮 ー 市寸島比売命(いちきしまひめ)
・辺津宮 ー 多岐都比売命(たぎつひめ)
となっていますが、日本書紀では、
本文
・沖津宮 ー 田心姫(たごりひめ)
・中津宮 ー 湍津姫(たぎつひめ)
・辺津宮 ー 市杵嶋姫(いちきしまひめ)
第一の一書
・沖津宮 ー 瀛津嶋姫(おきつしまひめ)
・中津宮 ー 湍津姫
・辺津宮 ー 田心姫
第二の一書
・沖津宮 ー 市杵嶋姫
・中津宮 ー 田心姫
・辺津宮 ー 湍津姫
第三の一書
・沖津宮 ー 瀛津嶋姫 別名 市杵嶋姫
・中津宮 ー 湍津姫
・辺津宮 ー 田霧姫(たぎりひめ)
という具合。
「一書」というのは、日本書紀で「一書曰(一書に曰く)」と表される「別の説では…」という意味の、編纂者が文中に付けた注釈のことですが、宗像三女神については本文以外に三つの説が書かれていて、それぞれ上記の内容となっています。
私は記紀は両方読んでいて、日本書紀の編纂者は丁寧なやっちゃな〜と思いますが、この「一書曰」には古事記のパターンが記されてないんですよね。
「こんな説もあるよ〜」と紹介するなら古事記の例があってもいいと思うんですが、せっかく書き上げた古事記の8年後に日本書紀を書いてるので、古事記の内容にちょっと批判的な気持ちや、「これはちょっとファンタジック過ぎるやろ〜」とか訂正したい箇所があったのでは……知らんけど。
現在宗像大社で実際に採用してるのは、日本書紀本文の、
・沖津宮 ー 田心姫(たごりひめ)
・中津宮 ー 湍津姫(たぎつひめ)
・辺津宮 ー 市杵嶋姫(いちきしまひめ)
です。
神話ばっかりの古事記に比べて日本書紀の方が信憑性があるし、とりあえず本文のパターンで……となったのでしょうかね?
とはいえ、昭和29年からの数十年にわたる発掘調査で、4世紀〜9世紀までの古代祭祀遺構や装飾品など、祭祀遺物(奉献品)が大量に見つかっていて、明らかに記紀が編纂される前からこの場所で人々が何かを信仰していたことは確かです。
また、縄文時代〜弥生時代の石器や土器なども発見されているそうです。
宗像三女神は天照大御神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がこの地上に降り立つ”天孫降臨”の際に、
「あなた達はニニギが降りる時に、道中(玄界灘のことらしい)でサポートしなさい」
と天照大御神から言いつけられたことが由来で、海の神・航海の神として信仰されてきました。
今では道の最高神として、航海及び交通安全の神様として親しまれています。
……ウンチクばっかりで全然先に進みませんわ(笑)
手水舎で手と口を濯いで……と。
穢舎は神事の際に利用される場所ですね。
一般的に「祓戸」と呼ばれるところと同じかな?
どっしりとした狛犬さん。
青銅の色って好きなんですよね〜。
長い年月を要さないとこういう色は出ない。
その長い年月を経て現代、大手石油企業の出光興産の創設者の出光佐三という人物がいます。
百田尚樹著の『海賊と呼ばれた男』の主人公のモデルにもなった人物です。(実話を元にした小説で、すごく面白いのでオススメ!)
出光佐三は旧宗像郡出身。1937年に幼少より崇敬していた辺津宮を訪れた際、あまりの荒廃ぶりを見て復興に力を注ぐことにしました。
まもなく戦争が始まり、辺津宮の復興は一度頓挫しますが、終戦後、日本が元気を取り戻した頃の1969年に改めて着手します。
本殿や拝殿は彼と彼が作った「宗像神社(大社)復興期成会」によって修復され立派に整えられましたが、遺すのが畏れ多いと辞退したため境内に出光佐三の名前を見ることはできません。
戦後の苦しい時代を乗り越えて、欧米の石油メジャーや日本官庁を相手に、日本の為に戦った海賊と呼ばれた男・出光佐三がこんなところでも活躍していたなんて、私としてはとても感動しました。
そしてもっと出光佐三が好きになった!
男の中の男、いや漢だな!
出光佐三が辺津宮を修復した時代から更に遡ること約400年前の天正6年(1578年)、安芸国出身の戦国武将・毛利元就の三男、小早川隆景によって拝殿が再建されました。
現在は重要文化財に指定されれいます。
拝殿の上部にある扁額は、小早川隆景が拝殿を寄進した際に掲げられたものですが、いったい誰の筆跡なんでしょう?
なんていうかこう、味があるというか……
もしかして小早川隆景の筆跡?
「宮」がちょっと左に寄ってる感じだけど、書き直すこともできないしとりあえずコレでいっか!……って感じだったのかな……とか想像した。
宗像大社は神門から拝殿までがアーケードのようになっていて(てか屋根があるだけ)、雨の日でも安心設計。
拝殿の天井の両サイドにあるのは「三十六歌仙扁額」。
”三十六歌仙”とは、平安時代の和歌の名人36人の総称で、額縁の中には三十六歌仙の姿と代表歌が描かれています。
桃山時代から江戸時代にかけて制作されたものだそうです。
ちょっと話が戻りますが、小早川隆景といえば筥崎宮も崇敬していたし、同社の楼門も建てているんですよね。
小早川隆景と同じように信仰心の篤い黒田長政(官兵衛の息子)とその子々孫々も筥崎宮を崇敬していたし、太宰府天満宮では第四代福岡藩主の黒田綱政が江戸期に鳥居を寄進していて、やはりこの宗像大社にも黒田家の関わりがありました。
何を隠そう、前述した「三十六歌仙扁額」を奉納したのは、第三代福岡藩主の黒田光之(黒田長政の孫)だったのです。
そしてこんなエピソードも。
長政の父親の黒田官兵衛は奇才な男でしたが、息子の長政はこんな傾奇者な一面もあったとは(笑)
いや、むしろ祟りを起こしたから、黒田家は後世まで代々神社を敬ってきたのかもしれません(笑)
この先は摂末社の紹介。
摂末社は本殿の瑞垣の中に24社、外に2社あり、121柱の神様がお祀りされています。
実はこの摂末社群、これまた黒田光之によって集めらたもの。(絶対に神社愛好家やん)
大化の改新以降は、「神郡(しんぐん)」と定められた地域でのみ神社の私有が認められましたが、九州での神郡はこの宗像郡だけ。
そこで、延宝3年(1675年)に第三代福岡藩主黒田光之が、宗像郡内の神社を集めて集合奉祀したのがこの摂末社郡、ということです。
光之エライな!
長政が沖ノ島からダメだつってんのに機織り機なんて持ち帰ってきちゃうからやっぱり祟りのことを気にして……ではないか。
摂末社のお社には最大で9社が合祀されています。
宗像大社のHPでは、代表となる神社名のみの掲載となっているので、ここでも同じように代表の神社の名だけをキャプションに記していきます。
仮宮に祀られている神様は、社殿の修復工事に伴い別のところで待機。
奈良から勧請した大神神社の神様を筆頭に6社。
京都の貴船神社も勧請されています。
次が難解。
”津加計志”と書いて、”つかけし”と読みます。
宗像市神湊に鎮座する津加計志宮から勧請している神社なんですが、どういう意味合いでこの名前になったのだろう?と考察したくなるような神社名ですよね。
なので私的に、いつもの「答えの出ない考察(笑)」をしてみます。(興味のない方は飛ばしてね)
「津(つ)」という字は船着場(港)を意味します。
「加計(かけ)」というのは「懸(かけ)」が由来になっていて、「懸」は”懸賞”などのイメージが強いですが、本来の意味は吊り下げる、引きかける、掛かる、という意味を持ち、崖や岸や浜に降りる段を表す漢字でもあります。
「志」は、こころざす、目的、目当て、しるす(誌す・記す)、ということ。
漢字を紐解くだけでなんとなく立地が想像できますが、その想像通り、津加計志宮の鎮座地の神湊は、宗像大社の辺津宮から北西の方角の港町の小山の上にあり、大島の中津宮を望められる場所だそう。
つまり、辺津宮と中津宮の中間にある港町の神湊に津加計志宮が鎮座していて、辺津宮、津加計志宮、中津宮を線で結ぶと一直線になるんです。
以上のことから、津加計志宮は辺津宮と中津宮の”結び”役も担ってるような存在にも感じますね。
これだけでもまあまあ面白いのですが、では津加計志宮の御祭神は誰なのか?というと、阿田賀田須命(あたかたすのみこと。阿田賀田須命)という和邇(わに。和仁古、和仁子)氏の祖神でした。
和邇といえば、思い出したのが、過去記事「87. 大神神社(おおみわじんじゃ) 其の伍 〜奈良県桜井市〜」で書いた、日本書紀における事代主命に関する一説。
「別の説では、事代主は大きな鰐になって、三島の溝樴姫、あるいは玉櫛媛という人のところに通われた。そして御子姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を生まれた。これが神日本磐余彦命(神武天皇)の后である。」
古代では「鰐」は「鮫」のことを指します。
『因幡の白兎』の話でウサギの皮を海で剥いだのも鰐=鮫。
性質の荒々しいサメを鰐鮫(わにざめ)と言ったりもしますね。
また、日本に鰐はいないこと、そして事代主命の父・大国主命が御祭神の出雲大社がある山陰地方では、鮫を鰐と呼んだりもすることを考えると、やはり鰐=鮫説は正解かな。からの鰐(わに)=和邇(わに)。
和邇氏の祖神の阿田賀田須命は、大国主命の6世の末裔にあたるという説があり、大国主命の子の事代主命は鰐(和邇)になったという話を踏まえると、阿田賀田須命は出雲国か大和国の人、しかも事代主命の系譜上に存在することが推測されます。
ではなぜ、そんな阿田賀田須命を祀る津加計志宮が宗像大社に関わってるんでしょうか。
阿田賀田須命は宗像三女神の7代孫で宗像氏の祖先とする説もありますが、これはどうも情報不足でしっくりこない。
全国の津加計志神社を検索しても、神湊の津加計志宮と宗像大社の津加計志神社しか出てこず出雲にも大和にも同じ名の神社はなさそう。
出雲国または大和国出身の阿田賀田須命の名が、なぜ筑前国にあるのでしょう?
事代主命の娘の媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)は神武天皇の嫁になってるんですが、ここが個人的には引っかかる。
国津神(地上に落とされた素戔嗚尊サイド)の流れ受け継ぐ媛蹈鞴五十鈴媛と、天津神(天照大御神サイド)の流れを受け継ぐ神武天皇の融合がきっと何かを意味してるんじゃないかな。
また、「加計」に纏わる地名を検索してみると、広島県の加計町が出てきます……が、加計町はかつて広島県西部にあった町で、現在は安芸太田町に飲まれています。
津加計志宮と加計町は何か関わりがあるんだろうか?
広島県の厳島神社(御祭神が宗像三女神)がある宮島の側に阿多田島(あたたじま)という島がありますが、この島名が阿田賀田須命の響きにちょっと似てることも気になります。
もう一つ、媛蹈鞴五十鈴媛の名にある「蹈鞴(たたら)」は”たたら製鉄”の”たたら(蹈鞴)”と同じ漢字で、前述した広島県にかつてあった加計町は砂鉄を産出する鉄山があり、たたら製鉄が盛んでした。
うむ、媛蹈鞴五十鈴媛と加計町も何か関わりがありそう。
厳島神社が創建されたのは593年なので、有史以前に創建された九州の宗像大社が先にあり、厳島神社は宗像大社から宗像三女神が勧請されたことになります。
厳島神社は宮島を治めていた佐伯鞍職(さえきのくらもと)という人物に神勅が下った、というのが厳島神社の由緒となっていますが、この人物に関する詳しいことが書かれた文献はなく、飛鳥時代の人物で安芸国の厳島に住む豪族ということしかわかりませんでした。(確か、佐伯氏は後の時代を生きる空海と遠縁にあたる)
佐伯鞍職と宗像大社の関わりが謎のままです。
それにしてもなんだろう、この宗像大社および津加計志宮と広島の深そうな関わりは…
ちなみに、例の小早川隆景の父・毛利元就も安芸国の人なので、広島と福岡の縁が二重にも三重にもあるように感じますね。
「答えの出ない考察(笑)」なので、この辺までが限界!続きはまた別の機会に…
ていうか津加計志宮に尺を取りすぎ。
宇生(うぶ)神社の左隣の正三位神社、和加神社、孔大寺神社、国連神社、浪折神社、宮田若宮神社は改修工事中。
宇生神社の御祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命。
指来(さしたり)神社は、阿蘇津彦命(あそつひこのみこと)で熊本県の阿蘇神社の祭神。
政所神社のお社は9社の合祀。
ギッチギチやな!
政所神社の御祭神は素戔嗚尊。
百大神社は元の鎮座地不詳かな。検索しても出てこなかった。
二柱神社は恐らく宮城県仙台市の二柱神社からの勧請ですかね。御祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命となっていました。
続いて、本殿右側にずらりと並んだ末社のご紹介。
藤宮(ふじのみや)神社の御祭神は、藤原鎌足。
稲庭上と書いて「いなばけ」と読みます。
「稲」って付いてるから御祭神は倉稲魂命かなーって思ったけど、やっぱりそうだった。
妙見(みょうけん)神社って名前がお寺っぽい。
御祭神は栲幡千々姫命(たくはたちじひめのみこと)で、邇邇芸命をお産みになった姫神。
千得下符神社(ちとくしものふじんじゃ)と並んで厳島神社も列せられていますね。
祇園神社はもちろん京都の八坂神社からの勧請で、宗像神郡に在ったのでしょう。
ちなみに、全国の祇園神社の総本社が八坂神社です。
織幡神社は武内宿禰(たけのうちのすくね)が御祭神。
神功皇后の時代の有能な政治家的な人です。
牧口神社の御祭神は、三毛入野命(みけいりぬのみこと。御毛入沼命)で、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と玉依姫との第四子。
御鑰持(みかぎもち)神社。
「御鑰」とは神社の御扉についてる鍵のこと。
御祭神は倭姫命。
瑞垣の外にあるのが、松尾神社と蛭子神社の2社。
松尾(まつお/まつのお)神社は京都の松尾大社から、蛭子(えびす)神社の御祭神えびす(夷)様は、七福神の恵比寿さんであり、事代主命であり、蛭子(えびす、ひるこ)とされます。
「蛭子」については『94. 春日大社(かすがたいしゃ) 其の肆 〜奈良県奈良市〜』で私なりに考察しましたが、七福神の恵比寿様は日本の外から来た神様(七福神はインド〜中国由来で、日本では平安時代末期(11世紀頃)に”市場の神”として祀った記録があり、七福神信仰が根付いたのは室町時代(1336年〜)から)。神仏習合の折に、七福神の大黒天様と大国主命が習合、弁財天様と市杵島姫命が同一視されるようになったのと同時期に、恵比寿様と蛭子神が同一視されるようになったと思われます。
「蛭子」とは本来、あの血を吸う「蛭(ひる)」のような子のこととの説が強く、古事記においては「水蛭子」、日本書紀においては「蛭児(ひるこ)」と記され、伊邪那岐命と伊邪那美命の最初の国造り(子作り)の際に方法を間違えたことによって生まれた不具な子で、3歳になっても自分で立つことができなかったため、天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)というクスノキで作った船に乗せられ、海へと流されてしまったとあります。
”体が不自由で3歳になっても立つことができない”ということから、手足のない蛭に見立てられて「蛭子(ひるこ)」と名付けられたのでしょう。
そもそもですが、七福神の”七福”とは、寿命、有福、人望、清簾、威光、愛敬、大量の7つから成り立っています。
そこに、それぞれに人型の”神”のイメージを持たせたのが七福神というわけ。
寿命=寿老人、有福=大黒天、人望=福禄寿、 清廉=恵比寿、愛敬=弁才天、威光=毘沙門天、 大量=布袋
という具合です。
6世紀中頃、日本に仏教が入ってきて、室町時代に七福神ブームが起こった際、誰かが七福神メンバーを「これって大黒天って大国主命っぽくない?」とかって同一として拝んでいたのがいつか根付いたんでしょうね。
なぜかフルメンバーではなく、大黒天様と弁財天様と恵比寿様だけが日本の神様と集合してるのか中途半端でモヤりますが、共感レベルで言うと、
有福=大黒天=大国主命 ←わかる
愛敬=弁才天=市杵島姫命 ←女神だしまだわかる
清廉=恵比寿=蛭子神 ←わかんない
って感じなんですよねぇ。
大国主命は子沢山で、国を繁栄させるという意味で、「有福」。これは理解できる。
市杵島姫命は海・水の神であって「愛敬」とかの意味は元は持ってないです。にも関わらず、水絡み&女神だからか、恐らく安直な考えによって(笑)弁財天と同一視されるようになり(弁財天は元はインド”河”の神だった)、時の経過で毘沙門天の嫁の吉祥天の特徴も混ざり(これも誰かが女神だからという安直な理由で結びつけたのか?笑)、琵琶(楽器の)持ってるしってことで幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神とされるようになりました……ってなんやねん。ごちゃ混ぜにすな!というのが私の率直な意見ではある。誰だ、こんな風に作り上げたのは!適当すぎる!(笑)
で、問題の蛭子神。
そもそも「清廉」から、恵比寿様が海・漁、商売繁盛の神とされていることにまず違和感を持ちますが、これがなぜ蛭子神になったのか。
蛭子神のストーリーは「清廉」とかっていうそういう話ではないし、商売繁盛??え?何が??って感じ。
ただ、蛭子神は海へ流された後、また日本へ辿り着いたって話が日本各地にある。(でたー!義経伝説みたいにどこの地域の人も「ウチに来てますから!」ってやつ!)
昔は日本の外(海)からやってくる”よそ者”を「夷狄(いてき)」と呼んでいたし、「戎」「夷」は異民族などに対する蔑称として使われてきた漢字です。
恵比寿様を祀る神社や寺とかでも「戎」や「夷」と言った漢字を使ってるのを見ると、(日本出身だけど)海からやってきた蛭子神を「夷狄」とし、外来の七福神の恵比寿様を用いて「蛭子」と書いて「えびす」と読ませたのではなかろうか……
でもやっぱり「清廉」=蛭子神というのがしっくりこないなぁー、私としては。
はたまたここでも古来より伝承される、祟りに怯える日本人の画があるのかもしれません。(実際には「祟りに怯えてなんでも祟りのせいにする」から祟りが起こる仕組みなんだけども)
歴史のどこかで、
「どんな理由であれ、神の産んだ子が不具だったからって捨てるなんて祟りが起きそうで怖いから祀っとこ」
的な発想によって、当時流行ってた七福神のメンバーの清廉担当を、
「蛭子を”清廉”にすることで蛭子を清めることもできるし、”えびす”ってことにして、(海へ出てったから逆に)海からやってきた神ってことにしたら何となく収まりが良いのでは?」
と発案した者がいたのかもしれませんね。知らんけど。
また答えの出ない考察をしてしまった。
この後は、瑞垣の外の第二宮(ていにぐう)と第三宮(ていさんぐう)へ向かいます。
後編へ続くー!
人気ブログランキング
ポチポチしていただけると喜びます
九州出身広島育ち、高校で加計の殿様の直系とも友人だったのですが、意外なつながり、まったく知りませんでした。非常に興味深く読ませていただきました。今後アンテナを張っていこうと思います。
ところで、生恥ずかしながらこの記事で初めて「化生」の本来の(生物学用語ではない)意味を知りました^^;
コメントありがとうございます!
広島も住んでたことがあるんですもんね♪
加計の殿様の直系ですか!そのご友人も家督を継ぐのでしょうか(=´∀`)
私も過去では漠然と海に面してるから厳島神社の御祭神は宗像大社と同じ宗像三女神なんだなーとしか思ってなかったのですが、紐解いてみると何やら深い関わりがありそうな!?というところに辿り着きました。
ええ、もちろんいつものように「答え」まで到達できない考察で終わるのですが(笑)
「化生」って普段は使わない単語ですもんね。
私はたまたま知ってただけで、日常でこの単語は全く使ったことはありません(笑)