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愛媛に着いたその日は、まず狸界きっての神通力の持ち主、八百八狸を引き連れた隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)を祀る山口霊神社を参拝。
日が暮れる前にそのまま松山市内の伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)へ。
道後七郡総鎮守・伊佐爾波神社は国指定重要文化財で、日本三代八幡造りとしても知られています。
別称「湯月八幡」や「道後八幡」などとも呼ばれています。

『伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)』
所在地 愛媛県松山市道後湯之町4-10
御祭神 神功皇后(じんぐうこうごう)
応神天皇(おうじんてんのう)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
三柱姫大神(みはしらのひめおおかみ)
社格 式内社、旧県社
例祭日 10月6日
鳥居 明神鳥居
社殿様式 八幡造
【由緒】
伊佐爾波神社の創建について詳細は不明ですが、清和天皇(858-876)の御代に奈良大安寺の僧・行教が、伊予国司に請い、道後に八社八幡を建立した中の一社で、神功皇后・仲哀天皇御来湯の際の行宮跡に建てられたといわれています。
延喜年間につくられた延喜式にも記載されている古社で一時期は湯月八幡宮とも、さらには道後八幡宮とも呼ばれました。
この伊佐爾波神社も当初は道後公園山麓に御鎮座していたと推測され、建武年間(14紀前半)頃、河野氏が湯月城築城に際して今の地に還し、道後七郡(野間、風速、和気、温泉、久米、伊予、浮穴)総守護と称えました。
その後、加藤嘉明が松山城の固めとして八社八幡を定めたとき、一番社として武運長久の祈願所と定め久米郡井合の土地百石を神社の社領として寄進されました。
現在の御神殿は江戸時代に入り江戸城で弓の競射を命じられた松山藩主松平定長公が八幡様に必中を祈願し、それが成就したお礼に建て替えられたもので、寛文4(1664)年6月に着手、大工697人、延べ人数69,017人を要し寛文7(1667)年5月15日に竣工し、しめやかなうちにも華やかに遷宮式が挙行されたと言われています。
京都の石清水八幡宮を模したと言われ、大分の宇佐神宮と並び全国に三礼しかない整った八幡造りの社殿で、昭和31年6月本殿が国の重要文化財に指定、昭和42年6月全体が追加指定を受けました。
松山藩主三代目の松平隠岐守定長公は、寛文2(1662)年の春、江戸城で弓の競射を命じられました。
定長公はかねてから弓の名手として誉れが高く、射損じては面目丸つぶれとあって、湯月八幡宮に「石清水八幡宮と同じ建物をお建て致しますので金的を射させてください。」と祈願をされました。
ある夜、夢枕に八幡様がお立ちになって「私の指図通りにしなさい。必ず射止めるであろう。」とお告げになりました。
当日になって、諸大名居並ぶ中、定長公は弓に矢をつがえ、きりりと引き絞って八幡様を祈念しました。
すると金の鳩が目の前で飛び立ち、これこそ八幡様のお指図と弓を放つと見事金的に命中しました。
定長公は面目をほどこし、祈願された通り飛騨の工匠を招いて八幡造りの社殿を建立しました。
寛文7年のことです。(伊佐爾波神社HPより)

一の鳥居から見えていた、階段の上の赤い建物が楼門です。

では、135段の階段を昇りましょう!


第56代・清和天皇の御代から数えて、約1200年もの間受け継がれてきた神社。
なかなか歴史が古いですよねー。

年季が入った社号標。

階段の途中、右側に狛犬さんが現れました。


素盞之男命と稲田姫命をお祀りする、素鵞社(そがのやしろ)を守る狛犬さんでした。

こじんまりとしたお社。
階段の頂上に着くと、朱色が生える立派な楼門が全貌を表します。

軒下には八幡宮の扁額。

陽が沈みかけてるから急がないと…

楼門をくぐった拝殿の左右には末社があります。
拝殿向かって右側が常盤新田霊社。
南北朝時代の武将、新田義宗、脇屋義治と共に、由緒にもあるように伊佐爾波神社を現在の社殿に建て替えた第3代松山藩主・松平定長をお祀りしています。

向かって左は高良玉垂社。
福岡県久留米市にある筑後国一宮、高良大社が総本社です。

ただ、こちらで祀られているのは、高良大社で祀られる高良玉垂命でもなく八幡大神でもなく住吉大神でもなく、武内宿禰(たけのうちのすくね)命でした。
なぜ竹内っちが?と思うのですが、高良大社に無関係な人物ではなく、景行、成務、仲哀、応神、仁徳までの5代にわたる天皇にお仕えした人物なんですよね。
神功皇后が新羅を征服で助けを祈った際、住吉大神と共に現れたのが高良玉垂命で、この高良玉垂命の正体は武内宿禰だとされる説があります。
よくわからないけど、とにかく関係性が強いのでこちらの主祭神になってるのでしょうかね。(いや、もっとちゃんとした理由があると思うけど)
因みに総本社の高良大社の方で祀られている八幡大神はしばしば応神天皇と同一視されます。
因みの因みに、住吉大神とは海の神三柱(底筒男命・中筒男命・表筒男命)のユニット名です。
もう少しこの武内っちの話をしたい。
そもそも武内宿禰の実態というのがあまりよくわからない。
天皇に5代にわたってお仕えしたと言いますけどね、(あり得ないけど)武内宿禰が0歳から天皇にお仕えしていたとて、景行天皇在位60年、成務天皇在位60年…このお二人だけでも120年も経過しちゃってんのよ。
だのに天皇5代にわたって仕えるとか長寿すぎるし長命すぎて誰よりも神すぎるし(それゆえ長寿の神様と言われている)、いったいあなたの正体は!?という感じ。
恐らくですが、記紀を編纂した際に編集者が何人かいた役職者「宿禰」を全部まとめて1人にしちゃったんじゃないか?と勝手に思っていますが、まぁ神話なのでこれでもいいのか……と。
武内宿禰っち繋がりでいうと、神功皇后が応神天皇を孕ったまま戦っていたとされますが、それも「?」となることろがあって、なんとその妊娠期間が約15ヶ月だとかいうんですわ。
生まれないように冷やした石を腹に巻いてたとか言われてるけど、ほんまかいな?と思わざるを得ません。得ませんが、その辺は神話でありファンタジーであり、または別の意味とも取れる書きっぷりの記紀なのでまあいいのかなって……

武内宿禰のことを考えてたら先に進めないので、回廊をぐるっと散策しましょう。

左側、高良玉垂社側から本殿の側面を眺めます。
綺麗な八幡造。

中国伝来の数学は江戸時代に人気を博して、当時の世界最高レベルにまで達したのだとか。
もう数学が趣味です!みたいな感じで、問題を解けることが人生の喜びってぐらいな人気ぷりだったのカシラ。
きっとナゾナゾを解くような具合で、江戸時代の人たちの娯楽になっていたんだと思います。
下のカラフルな丸が描かれたものは、關家(せきいえ)喜多次さんによる人気の出題。
問題文
今の図のように、円弧内に青、黄、赤、黒、白の5円を入れる。青円の直径、赤円の直径、黒円の直径がわかっているとき、白円の直径はいくらか。

……いや、さっぱりわからん!
絵の中にヒントすらあるのかどうかさえわからん!
でも私は調べましたよ、そんなに有名なナゾナゾならば、現代において誰か解いた人はいるはずだ、と。
その結果、みなさん出題してるばかりでコレって回答がなく、それでも諦めずに探しましたらこんな論文を見つけました。
伊佐爾波神社の算額にみる江戸末期の和算
(愛媛大学教育学部数学教育講座) 平 田 浩 一
こちらの論文の202ページの右下「4. 関家喜多次の算額」からが目的の箇所。
……読んでみたけど、読み進めるにしたがい余計に難しくなって嫌になった!(笑)
答えを出すのに、約3ページも割いて説明と計算式を要する数学がありますか!?そして解は書かれているものの、その途中も回答もどういうことなのかよくわからない!
だいたいにして当時の人は√とかこんな何々の二乗とかそんなの使ってないやないか!
論文のまとめはこう締め括られる。
和算家はというと、図形問題を解くために『算法助術』のような公式集を利用していた。そこ収拾されている公式を用いれば、立式が容易になり、かつその後の計算も簡単になるという、すばらしいものである。和算家が膨大な計算をする中で見いだした智恵が、公式集として結晶しているといってもよい。
……もっと簡単な解き方あるんかい。
この偉い人が一生懸命にコチャコチャコチャコチャ計算式をたくさん書いてくれたのに、『算法助術』さえあればすぐ解けちゃうの?もう攻略本じゃん。
ていうか、江戸時代の人めっちゃ賢くない?

關家喜多次ポンの出題と並んで掲げられていたのが、第56・57代内閣総理大臣を務めた岸信介著の『敬天愛人(けいてんあいじん)』。
西郷隆盛が愛した言葉で、「天を敬い、人を愛する」と読みます。

こちらの絵馬の武者は、源頼朝と言われています。

いやー馬の躍動感!
これは絶対強いでしょ!上に乗ってる人(頼朝)!

他にも趣のあるものや躍動感のある絵馬が飾られていました。
ここがちょうど本殿の背面。

で、八幡造の逆サイド。

末社・常盤新田霊社の背後です。

はい、正面まで戻ってきました。

楼門の扉には浮き彫りが施されていることに、ここで気付きました。
老婆と老爺に見えますが、何かの神様を模ったものでしょうか?


おーー!!
なかなか良い景色!
傾いた陽の光がエモくてイイ!
この先は道後温泉駅まで真っ直ぐに参道が続いています。

なんか宮地嶽神社みがあるな〜。
重要文化財であるこの伊佐爾波神社の説明が書かれた銘板を読んでみる。

……え!?建築力士像ってナニ!?楼門の屋根の下に!?
調べてみたところ、建築力士像とは、寺社などの軒下の四隅などにいて、軒や柱を支えている小さな小さなお相撲さんだそうです!ちっさいおっさん!
建築力士像マニアの方もいて、全国の寺社へ行った先の建築力士像の写真を撮り溜めた記事などがありました。
え〜〜〜こんなに神社巡ってるのに全然気付いてなかったー!
過去の写真とか漁ったら見つけられるかもしれないけど、今度から建築力士像も注目してみよう。
ちなみに、伊佐爾波神社の楼門の写真を再度見てみましたらそれっぽいのがいました!

でも遠すぎて姿がはっきり見えない(泣)

重要文化財の刀と、愛媛県指定有形民俗文化財の算額の紹介。

この年(2024年)の干支に因んだ辰の大絵馬。
東洋の竜と西洋のドラゴンのコラボ。

伊佐爾波神社は、社殿の全てが重要文化財に指定されています。

せっかくなので回廊の外側も散策しておきましょう。

本殿の背後は駐車場になっているのですが、その片隅に下へ降りる階段がありました。
鎌倉時代に時宗(浄土宗の宗派)を創始した、一遍上人(いっぺんしょうにん)というお坊さんの生誕地でもある宝厳寺へ続いています。
踊りながら南無阿弥陀仏と唱える「踊り念仏」のパイオニアだとか。ポップですね。

正面に戻ってきました。
あ、そうそう!御朱印を戴かねば……

いやダメなんです、ここに到着した時点ですでに授与所は閉まっていたのでね……

干支の辰の切り絵の限定御朱印いただきたかったなぁ〜。
残念だけど仕方ない!
今日の神社巡りはここまでにして、お腹も空いたし、夜の伊予を堪能しに行くとするかな!

ではまた次回ー♪
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