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前回の続きです。
土方歳三と榎本武揚が北海道へ来る時に乗ってきた開陽丸に、いざ乗船!!
緊急時はこの小舟で脱出だ!
…あ、言うまでもないかもしれませんが、こちらは当時の開陽丸ではなく、復元されたものです。
今にも悠然と航海に出そうな風貌です、が、動きません(笑)
動かないけど、この船には実際に乗船できます。
というのも、中はなんと博物館になっているんです!
この船自体が「開陽丸記念館」という施設になっていて、入場料を受付で払い中を見学することができます。
当然、中へ入りますとも。ええ。
船内は当時の大砲が実際の配置で設置してあり、横の空間では乗組員が釣床(ハンモック)で仮眠を取っていたりします。
寝ているので起こさないように、と注意書きがあったので、そーっと移動。
大砲の横には、海底から引き揚げられた砲丸などが展示してあります。
あ!例の徳川家の「三つ葉葵」!
葵の葉をオランダ人の紋章職人がハート型と勘違いして作っちゃったやつ(笑)
開陽丸には様々な職業の人たちが乗っていたようです。
土方歳三は北海道で新たな国を興そうと夢見てやってきました。
そのため、乗組員の中には仕立て屋さんもいました。
仕立て屋さんの名は、亀吉さん!
亀吉さんの行李(旅行バッグ)には、裁縫に使う小物、そして浅桶、名札、筆記用具、お金なども入っていたようです。
仕事道具と旅行セット、という感じですね。
開陽丸は江差沖で停泊中に風浪に押されて座礁して沈没しますが、乗組員は全員脱出し、この江差町に上陸したようなので亀吉さんは無事に難を逃れてるはず。
その後どんな道を歩んだんでしょうかね…
当時、開陽丸は帆装形式の船としては最新鋭でした。
船に詳しい方だと、この図を見ただけでパッとどんな仕様なのかわかるのかな?
こちらは大砲の部品や、信管や雷管。
船の奥では男たちが大砲の発射準備をしていました!
今でもこうして仕事をしています。
働くねぇ〜!
「大砲隊体験室」というのがあって、これは体験したい!…
…と思ったけど、残念ながら閉鎖中でした(._.)
館内には様々な遺品や部品などが数多く展示されていて、本当に見応えたっぷり。
榴弾もこんなにたくさん!
ですが、これは引き揚げたもののみなので、未だ人知れず海底に残ってるものも数多あると思います。
こちらは汽笛用タンクと換水装置。
榴弾を割った様は初めて見ました!
手前の小さな玉はゴルフボールぐらい。
海底から引き揚げられた遺物はまだまだあります!
これらはただ引き揚げるだけではなく、脱塩処理や保存処理などを施す工程があるため、なかなか大変な作業の末にこうして展示されるに至り、そのおかげで私たちも当時の遺物を目にすることができています。
こういうものを見ていると、まるで時が止まったような感覚になりますね。
誰かのサーベルや日本刀。
当時はオランダやポルトガルなどと貿易もしていたので、サーベルも日本に入ってきていました。
開陽丸が1868年(慶応4)に海の底に沈み、それから約100年後の1975年(昭和50)から本格的に始まった海底発掘調査によって、32,905点の遺物が引き揚げられています。
こんな可愛いうさぎの装飾品は誰が持っていたんでしょうね?(*´∀`*)
武器に医療用の備品に食器、服飾小物など、本当に様々な展示物があって興味をそそられます。
ベルトのバックルやボタンに至るまで、色んなデザインがあって、当時の人もオシャレには気を使っていたんだなぁとなんとなく親近感が湧きますね。
開陽丸の引き揚げは実は箱館戦争直後から行われていましたが、潜水具や機材などが十分ではなかったために有耶無耶になり、いつしか「開陽丸は昔に引き揚げられて、もう無い」という認識が広まったようです。
ところが、1974年(昭和49)に、江差町教育委員会教育長の石橋藤雄さんという方がその説に疑問を感じ、文献から沈没位置を推定して潜水調査を行ったところ、開陽丸の遺物が発見されました。
この発見が文化庁にも認められて、翌年の1975年(昭和50)から本格的に発掘調査が始まり、更に開陽丸が作られたオランダで保管されていた設計図を元に開陽丸の復元、という運びになります。
そして1990年(平成2)、実物大の開陽丸がこの江差町の港に還ってきて、その勇姿を見せました。
調査方法、引き掲げ直後の脱塩処理、その保存処理など、全ての工程で試行錯誤を重ねられた開陽丸の発掘は、軍事史や船舶史での史料価値、そして水中考古学の分野においても貴重な例として大変な注目を浴びることになりました。
開陽丸の船体および遺物は、日本初の海底遺跡としても登録されています。
葡萄みたいに鉄のツブツブが付いた滑空弾は、そのまんま「葡萄弾」と呼ばれ、散弾効果の高い対人攻撃用砲弾です。
飛んできたらこれがバババババ!!!と飛び散って体に当たるのでしょう?
痛そうで嫌だなぁ…(痛いどころではないか)
乗組員のヘソクリもたくさん引き揚げられました!
別にヘソクリってわけではないだろうけども。
この時代の貨幣は金銀銅がそのまま素材として使われていました。
それだけ日本では金や銀が多く採れていたのです。
ここに外国が目をつけます。どういうことかと言うと…
日本では金と銀の交換比率が1:5と銀高だったところ、世界では1:15でした。
要は、日本で金1gを銀に交換すると5gの銀になり、外国では1gの金が15gの銀になります。
つまり、外国で金から銀に交換するよりも、日本で交換した方が銀の量が少なくなります。
これを逆手に取り、日本国外から来た人々が外国から日本に銀を持ち込んで金に交換。そしてその金を国に持ち帰って銀に交換すると大儲け、ということが流行ります。
自分の国であれば金1gを得るのに銀15gが必要ですが、同じ銀15gを日本で金に交換すると3gの金を手に入れられる。
自国で交換するよりも、3倍の金を手に入れられるわけです。
「こんなオイシイ話ないわ」ってことで、日本の金が大量に外国へと流出していきます。
このことに気が付いた江戸幕府は、是正するため国際比率に合わせて金の含有量を減らした万延小判を改鋳しますが、それが原因で貨幣の価値が下がり物価が高騰するに至ります。
この物価高騰が庶民の反発や不満を増幅させ、攘夷運動に発展する要因の一つともなっていくのでした。
にしても、50両、重そうやな。
ワインカップがあるということは、上の段の黒い瓶にはワインが入っていたのでしょうかね?
大昔にホテルのレストランでバイトをしていた頃は、フォークやナイフを「シルバー」と呼んでいましたが、今は「カトラリー」と呼ぶ方が主流なんかな。
幕末では”カトラリー”を使って食事をすることも珍しくなかったのかなぁ。
陶磁器や焼き物の柄というのは、現代とあまり違いがないようですね。
ちりれんげの中に一本木が立っている風景が描かれているものがありました。
アジア人というのは小さな範囲に世界を描くような、こういう美的センスが好きですよね♪
革靴があったと思えばわらじもあって、時代の移り変わりによる文化の混ざり合いを感じます。
普通のソックスからルーズソックスへと流行が移り変わった時代とオーバーラップしました。(ルーズソックスの走り世代)
ドミノ牌とかもある。
ドミノ牌といえばドミノ倒ししか知りませんが、本来の遊び方は違うんですよね。どんなんか知らんけど。
時を重ねるとマンホールの蓋さえオシャレに見えるものなのだな(*´-`)
ハンドルやバルブやフックや巨大なネジまで、多種多様な遺留品が引き揚げられています。
ピストルも数多くありますが、拳銃マニアや武器マニアの方にはたまらん品物なんじゃないでしょうか!?
ガンケースもありました。
恐らく革製だと思いますが、革は海中でもあまり腐食しないんですね。
あ!会議室で幕末の志士たちが会議をしています!
お邪魔にならないようにしなきゃ…
左は中島三郎助(なかじま さぶろうすけ)と荒井郁之助(あらい いくのすけ)。
二人とも江戸末期の幕臣で、中島三郎助は江戸幕府浦賀奉行所与力、後の蝦夷共和国箱館奉行並。自身は軍の会議で降伏を進言するも討死を公言して、箱館戦争での降伏を拒否し二人の息子と腹心と共に戦死を遂げます。(サムライだなぁ…)
荒井郁之助は旧幕府軍の降伏後、獄中生活を2年半過ごし死刑を免れ、明治政府に北海道の開拓使として榎本武揚と出仕。主に測量を担当していたようです。
その後は気象学に励み、初代の中央気象台長に就任します。
右の二人は、榎本武揚と土方歳三。
榎本武揚は龍宮神社(この神社は榎本武揚によって創建されました)でもご紹介していますが、1869年に現在の函館の亀田八幡宮で新政府軍に降伏した後、東京で収監されます。
1869年に特赦により出獄、謹慎語に放免。北垣国道らと北海道の開拓使として明治政府に出仕、その後は政治家として大活躍をします。
榎本武揚は北海道史に縁が深い人物なのです。
土方歳三の旦那については今更説明することもなさそうですが、幕末の幕臣で新撰組・鬼の副長。戊辰戦争では指揮官として活躍、鳥羽・伏見の戦いにおいて敗戦後はグイグイと新政府軍に押され、戦地が北へ北へと移っていき、とうとう北海道へと辿り着きます。
土方歳三は北海道で新たに国を作ることも考えていたようですが、その願いも叶わず、箱館戦争で腹部に被弾し、そのまま落馬して絶命…というのが、土方歳三の最期として通説のようです。
私の土方歳三像は司馬遼太郎の『燃えよ剣』なんですが、読書が好きな方はぜひ読んでみてください。司馬遼太郎の作品の中でもこれは特に好き!
またこの書籍を映画化した同タイトル『燃えよ剣』もおすすめです。
土方歳三役を務めた岡田准一さんは、この辺の時代の役をやらせると本当にハマりますねぇ。
風貌や演技に土方感も出ていてとても良かったです。
艦長室では沢太郎左衛門(さわ たろうざえもん)が部下に何やら教えていますね。
沢太郎左衛門も降伏後は投獄、釈放されたのち、明治政府に出仕。
船の技術と海軍の知識を買われ、海軍兵学校の教授などの経歴を経て海軍一等教官となります。
1886年(明治19)に退館して1898年(明治31)に肺炎で逝去。
戦いに敗れた者達でも、歴史を動かし歴史に名を残す人物というのは、やはりどこか一般の者どもにはない才能や魅力がありますね。
私も何か爪痕残したいわー(笑)
むむ!?
案内板に「甲板登り口」とな!?
え!甲板行きたい!٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
ということで甲板に来てみました!
ロープがいっぱい!
手縄とか水縄とか色々あるらしいですが、どれがどれなのかちょっとよくわかりません!(笑)
できれば帆を張った姿を見てみたいですね。
とても立派な帆船なのはこの状態でも想像できました。船については素人の私でもわかる!
あのジャングルジムとかにありそうな縄のアミアミのやつはシュラウドというもので、マストに登るためのものです。
あんな上まで登っちゃうの…ジャングルジムとはレベルが違う…
「面舵いっぱぁ〜い!!」とやりたくなるやつ。(私もやりました)
これまでいったいどれ程の人々が同じことをやったことでしょうか。
甲板から見たらこの小舟もしっかりした造りでした。
うむ。緊急事態もなかったし、この小舟の出番がなくて何よりであったな。
潮風が気持ちいい。
復元された開陽丸は今にも海へと漕ぎ出しそうで、土方さんとこの海を旅してみたかったわ〜ん(*´ω`*)…と少し妄想に耽りました。
港の向こうに見える半島は「かもめ島」の右翼か左翼です。
半島がかもめが翼を広げたような形になっているの。
かもめ島の上に厳島神社もあったのですが、時間がなくて今回はかもめ島へは上陸せず。
さて、しっかり開陽丸(ていうか開陽丸記念館)を堪能したし、そろそろ下船して明日の準備をするとしますか。
このサビ具合もリアル。
今回は大変貴重なものを見させていただきましたなぁ(´∀`)
江差町って今まで訪れることもなかったし、こういった歴史的な博物館があることも知りませんでした。
私は生まれも育ちも北海道ですが、まだまだこの地を味わいきれてないなぁ〜なんて思います。
だって北海道ってオーストリアと同じぐらいの面積で広すぎるし!
そりゃ土方の旦那も「広大な大地、北海道で新たに国を造ろう!」てなるって!(笑)
翌日は朝からまた江差町歴史巡りと、北海道最古の神社姥神大神宮へ乗り込みます!
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