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京都の最終日です。
この日も雨100%の予報なのに晴天、というか猛暑。
やはり私は選ばれし者かもしれないワ…(キラキラな妄想)
この日は史跡を一か所巡ってから平安神宮へ向かいました。
その史跡などに関しては別の記事で改めて綴りたいと思います。
御朱印はコチラ→ 御朱印 平安神宮(へいあんじんぐう)
『平安神宮(へいあんじんぐう)』
所在地 京都市左京区岡崎西天王町97
御祭神 第50代・桓武天皇(かんむてんのう)
第121代・孝明天皇(こうめいてんのう)
社格 旧官幣大社
例祭日 4月15日
鳥居 根巻鳥居
社殿様式 入母屋造
【由緒】
平安神宮は平安遷都1100年を記念して、明治28年に遷都のおや神様である第50代桓武天皇をご祭神として創建されました。
当時、京都の衰退ぶりは目を覆うものがありました。幕末の戦乱で市街地は荒廃し、明治維新によって事実上首都が東京へ遷ったことは人々の心に大きな打撃を与えました。
その状況下で京都を救ったのは、京都復興への市民の「情熱」と全国の人々の京都に対する「思い入れ」でした。数々の復興事業を展開し、教育、文化、産業、生活などすべての面において新しい京都が模索され、同時に古き良き京都の維持継承に力が注がれたのです。
これらの熱意と一連の町おこし事業が見事に結実して、平安神宮が創建されました。
千年以上も栄え続けた雅やかな京都を後世に伝えるために、京都復興にかけた多くの人々の遺志を後世に伝えるために、四海平安の祈りを込めて創建されたのです。
その後、皇紀2600年にあたる昭和15年には、市民の懇意によって平安京有終の天皇、第121代孝明天皇のご神霊が合わせ祀られ、「日本文化のふるさと京都」のおや神様として広く崇敬を集めることとなりました。
さて、この平安神宮ですが京都では比較的新しい時代に創建されています。
ウンチクを綴りますが、知っていた方が理解が深まるのでお付き合いください。
由緒に書かれているように創建は明治28年。
京都の長い歴史からすると、つい最近という感じですね。
明治維新によって荒れ果て、仕舞いには首都も京都から東京へ遷ったことに嘆き悲しんだ人々が、「もう一度、京都に雅を取り戻そう!」と結集し再建した京都のシンボルとして平安神宮は創建されました。
平安神宮は京都復興を願うたくさんの人々の想いによって創り上げられたものなんです。
御祭神である桓武天皇(第50代)は、平安京を造られた天皇です。
昭和15年には平安京で過ごされた最後の天皇である孝明天皇(第121代)が合祀されました。
平安京の最初と最後の天皇をお祀りする平安神宮、アツいですよね!(温度が上がってるのは私だけかな?)
ところで昨年、元号が変わり現在の天皇陛下が即位されたこともあって「第○代天皇」という呼び方を耳にした方も多いと思いますが、「第121代」と聞くと結構最近な感じがしませんか?
というか結構最近です(笑)
孝明天皇は今から5代前の天皇にあたります。
現在の天皇陛下は第126代です。
昨年4月30日まで平成天皇として即位されてた上皇陛下は第125代。
上皇陛下のお父様、昭和の時代を築かれた天皇は第124代。
そこから父方を遡って昭和天皇のお父様の大正天皇(第123代)、お爺様の明治天皇(第122代)、そしてその上が孝明天皇(第121代)。
30歳以下の方は殆どご存じないかと思いすが、昭和天皇の曽祖父にあたるのが孝明天皇です。
(うん、最近の人の感じがしてちょっと親近感)
孝明天皇の時代は、日本が激動を迎えていました。
有名な歴史上の出来事は、ペリーさんが黒船で来て「開国せぇ!」って言ってきたけど「私の代で異国人に国を汚されるようなことがあったらご先祖様に申し訳ない!とんだ恥さらしやで!鎖国、鎖国ー!」(孝明天皇談)ということがあったり(ペリー来航)、「もう徳川幕府になんて任せてられるか!ボケェ!一揆や、一揆!!」「政権を朝廷に戻せー!」という新政府軍(天皇親政派)と旧幕府軍(徳川幕府派)の争い(明治維新)でしょうか。
この明治維新により都が京都から東京に遷り、孝明天皇が平安京最後の天皇となりました。
また、遡ること1283年前、第50代の桓武天皇ですが、坂上田村麻呂(どこまでが苗字やねん!という方のために、読みは「さかのうえ(苗字) の たむらまろ(名前)」です)を征夷大将軍として東北地方に派遣(蝦夷征伐)したりもしていますが、最澄(さいちょう)や空海の登用による平安仏教の確立についての話の方がご存知の方が多いかもしれません。
桓武天皇の第1皇子である平城天皇(第51代)と第2皇子の嵯峨天皇(第52代)が対立した「薬子の変」も有名な事件かもしれません。
この「薬子の変」を治めるのに空海が一役かっているようです。
桓武天皇は仏教を確立させた天皇と言っても良いのかもしれません。
(空海とこの時代のことを知りたい方には北大路欣也さん主演の映画「空海」をオススメします。古い映画ですが余計な雑味ナシでわかりやすいです!)
御祭神の予備知識についてはこれぐらいで良いでしょうか。
では本題に…
平安神宮の付近は動物園があったり京都国立近代美術館があったりロームシアターという大きなコンサートホールがあったり、この辺り一体で色々楽しめそうですが誘惑に負けず、看板の通りに直進です。
なになに…無鄰菴に?南禅寺?……そっちも気になるなぁ…
いやいや今日は平安神宮だから!と頑なに直進。
あれは紛うかた無き大鳥居!!
国内有数の朱の大鳥居です。
遠くからは見えなかったんですが、大鳥居の手前には運河(?)があって朱の橋が架けられていました。
近くまできましたが、まあ大きい!!
写真では伝わりにくいですが、鳥居の根巻き部分が2m近くあるかな?というサイズです。
今までみた大鳥居の中で一番大きいかもしれない…
因みにこの大鳥居は「登録有形文化財」に指定されています。
鳥居の先は広い参道になっていて、目前に楼門が見えます。
や、この楼門も結構大きいです!
ちょっとした神社の本殿ぐらいありますよ。
社号標も結構な大きさです!
毎度ですが写真じゃ伝わらないのが悔しい。
結構歩いてきましたが、これでもまだ距離があります。
左にあるのは手水舎です。
やっと着いた!
下の写真の方がわかりやすいかと思いますが、スケールを確認していいただきたい。
楼門の下に黒い人影がありますよね?
これぐらいのサイズ感です(アバウト)
この楼門を見ただけでも迫力に感動でした。
これもまた重要文化財となっています。
私はひとまとめに「楼門(ろうもん)」という呼び方をしていますが、神社にある楼門は「神門(しんもん)」と言ったりもします。
実はこの門、空海さんと深い関わりがあります。
「應天門」(または「応天文」とも表記されます)と額が掲げられていますが、その額の文字を空海が書いたとされています。
皆さんは「弘法も筆のあやまり」という諺は聞いたことがあると思うのですが、なんとこの門はその諺の元になった門なのです!
平安京があった頃、朝廷に使えていた空海さんはこの門の額を書いてくれと頼まれます。
「よっしゃ、書いたろ!」とその依頼を引き受けた空海さん。
出来上がってその額を門の上部に掲げました。
その時にハッとします。
「ヤバ!”應”の文字の点が抜けてるー!どうする俺!?」
考えた空海さんは墨を付けた筆を”應”の文字を目掛けて投げつけました!
見事に筆は命中し、ちゃんとした”應”という漢字になりました。(肩良すぎ)
「あの筆の達人、弘法大師(空海)さんも文字を間違えることってあるんだね〜」
という話から「弘法も筆のあやまり」という諺が生まれました。
因みに現在の應天門及び額は明治28年に平安神宮の神門として復元されたものです。
空海さんが書いた本物の文字を見てみたかったですね〜!
神社を巡っていると色んな時代の歴史にも触れることが多くて本当に楽しいし勉強になるし、日本という国の神秘と奥深さを知ることができます。
楼門の前に手水舎はありますが、実は中の方にも2箇所あったことを先ほど知りました(笑)
なぜ見落としてしまったのか…この手水所も平安神宮では象徴的な箇所でした。
後悔…
上の写真は一番お気に入りの写真です。
どうぞ拡大してご覧ください(笑)
平安神宮の社殿は、平安京(西暦794年〜1869年)の正庁(様々な儀式を執り行う中心施設)であった朝堂院(ちょうどういん)を8分の5スケールで再現する形で創建されています。
真ん中に見えるのは本殿にあたる「大極殿(だいごくでん)」です。
この呼び名も平安京からの呼び名で、古代の日本における朝廷の正殿を指します。
天皇が政務をしたり国家の大礼を行なうところ、ようは国の要となるところです。
“大極”とは星の中心である”北極星”もさす言葉で(あくまでも地球から見ると、ですが)、不変などの意味も併せ持ちます。
大極殿が北に置かれてるのもその由来でしょう。
そして右(東)に蒼龍楼(そうりゅうろう)、左(西)に白虎楼(びゃっころう)が造られています。
京都は風水に準えて造られた都なので四神を模してるところが多いです。
四神とは東西南北の守神で、北=玄武(げんぶ)、東=蒼龍(そうりゅう)、西=白虎(びゃっこ)、南=朱雀(すざく)と表されます。
祇園祭で有名な八坂神社も四神を意識して造られました。
あそこの土地の下には玄武が眠っているそうですよ(^-^)
楼門を抜けるとそこは古の時代。
タイムスリップした感覚に陥ります。
かなりの大きさですが、これで8分の5スケールですからね!
当然ながら本物はもっと大きいわけです…間近で見ると圧巻です。
上のそれぞれの写真の手前にある石のオブジェのようなものは手水舎で、平なところに乗っかってるように見えるのはそれぞれ蒼龍と白虎です。
これを私は見逃してしまっていて後から知りました(>_<)
接写したかった…(笑)
もうお分かりだと思うのですが、平安神宮は相対的な造りで均整が取れていてとても美しいです。(私の好きなタイプ)
そしてこの写真を撮った位置から北に大極殿があるわけですが、南北を二分するように龍尾壇があります。
これも重要文化財となっています。
大極殿の中では撮影禁止なのでこれぐらいの写真が限界です。(あまり近くで撮ると怒られるから)
人が写ってるのが見えると思いますが、このサイズで8分の5スケールですからね!(しつこい)
フルサイズとなるとかなりの大きさなのが想像できると思います。
この大極殿の中で参拝をするんですが、とても居心地が良いのです。
それを皆様に写真などでリアルにお伝えできないのが悔しいんですが、大極殿の中にいると清浄な気配も感じてとても不思議な気持ちになります。
言葉でうまく説明できない!
なので是非実際に行ってみてください(^-^)
そしてそこから、天皇の気持ちで京都が広がる南方面を眺める(笑)
この風景を見ながら、天皇になりきって国の安寧を願い、民の幸せが八千代にあれと願ったりしてみました(クレーンがちょっと邪魔やなぁ…)
一人天皇ごっこ。
いや、でも!
本当に時の天皇はみんなそういう気持ちでこの風景を見ていたのでしょうね。(8分の5スケールの復元したやつだけど!)
尊いですね…
そんなこんながあって今の日本がありますからね。
こちらの大極殿も重要文化財です。
全然文字が読みにくいですね、すみません(笑)
釣灯籠も計算された位置に釣られています。
柱と柱の間の位置に釣灯籠がくるように釣られています。
ホントこういうの造る人って天才だな…
ここで白虎楼の写真に写った「神苑入口」という立札を私は見逃しませんでした!
蒼龍と白虎の手水舎は見逃したけど!
「お庭があるの?」
とせっかくなので入ってみることにしました。(有料です)
国指定名勝だそうですよ!
これは一見の価値あり!
案内図を見る限り結構広そうです。
白虎楼のある西側から入って大極殿の裏を回って東の蒼龍楼付近から出てくるコースですね。
いざ!!
と意気込んで入ったは良いけど、夏ってあまり花が咲いていないのかな?
藤棚に見えるのは紅枝垂桜の木で、至る所にあって春に来たらとても綺麗だろうなぁと思いました。
池には睡蓮。
睡蓮って仏様の絵などにもよく出てくるので神秘的なイメージがあって綺麗ですね。
ていうか、花が咲いてるのは睡蓮だけでした(笑)
大極殿の裏を通り抜け中神苑にさしかかったあたりで、なんかモーター音が聞こえるな〜と思ったらこういうことでした!
中神苑のお池が「池の水ぜんぶ抜く」になっていました(泣)
でもこれはとても大切な作業で、環境保全には必要なことです。
池や湖に生息する外来種は元は人間が放ったものですが、それによって絶滅危惧種などの在来種が完全にいなくなってしまう危機が生じています。
外来種で有名なのはブラックバスやブルーギルですが、此奴らはとても繁殖力が高いのです。
在来種保全のためにこの神苑では定期的に池の水を全部抜いて泥などを除去して生き物が生息しやすい環境を維持してるんですね。
ダイジ、ダイジ。
さて、そんな作業員さん達に心の中で一礼をしながら東神苑まで来ますと西神苑とはまた違った風景が。
(クレーンがなぁ…)
泰平閣(橋)を渡って蒼龍楼付近の出口へ向かいます。
一点透視図法フェチな私としてはこういうのたまらないですね〜!(キャッキャ)
いや〜美しい!
平安神宮の授与所は楼門の左右それぞれにあります。
素晴らしい松の木。
めっちゃ支えられとる。
ダリの絵を思い出す。
すっかり平安神宮を堪能して楼門を抜けたところでこの看板がパッと目に入りました。
境内の案内図…
今見るとちゃんと蒼龍と白虎の手水所が書かれてる…
後悔…
私が参拝した日は何もない日でしたが、次に来る機会があれば「時代祭」に合わせて来たいなと思います。
上賀茂神社の「葵祭」、八坂神社の「祇園祭」に並ぶ「京都三大祭」のひとつで、平安京の造営された時代から明治維新時代まで、約2000人の市民の市民の方がその時代時代のスタイルに扮して京都の街を練り歩く時代風俗行列が見所のお祭りです!
本当にタイムスリップした気持ちになること間違いなしです!(^-^)
平安神宮を後にして、京都の旅の最後は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)をお祀りする滋賀県の建部大社へと向かいます。
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