史跡巡り

纏向遺跡② <箸墓古墳(大市墓)> 〜奈良県桜井市〜



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前回茅原大墓古墳で古墳とのファーストコンタクトを遂げた私。

この地点から次の目的地、「卑弥呼のお墓」説がある箸墓古墳まではとりあえずなんか遠そうだし、「卑弥呼の宮殿」があった場所と噂される最終目的地の辻地区建物群へ到達する前に、ここで疲労でリタイアするワケにはいかん!ということでタクシー移動。

地元の方とお話をした時に、このあたりは公共交通機関があまりなく、車を持ってない人は比較的タクシーを使うよのだよ、と教えてもらってからは、無理にバスなどを探さずタクシーを呼ぶようにしました。(”流し”は基本的に走ってない)

滞在中は数回タクシーを利用しましたが、運転手さん達はみんなもとても親切でした。
「札幌から来ました」と言うと皆さん決まって「えぇ!?札幌から!?北海道から!?そんな遠くから!!」って凄いビックリされるので、「あまり札幌からは来ないですか?」と聞くと、「みんなだいたい大阪や京都で止るし、特にこんな田舎まで来る人は殆どいないからねぇ〜!しかも札幌からなんて!」ってちょっとウキウキ気味で教えてくれました(笑)

奈良中心部から離れると車がないと不便というのは今回とても思い知りましたが、奈良県外から来る玄人は陸路で自家用車か、そうでなければレンタカーを利用したりするんでしょうね。
県外の人が中心部以外でタクシー利用するケースはあまりないのかも。(と、今書きながら思いました)

そんな他愛のない会話をしながら箸墓古墳に到着。

茅原大墓古墳から西へずっと行くと、全長272mの前方後円墳箸墓古墳に着きます。
タクシーの運転手さんは前方後円墳の鍵穴の右下の角のところ(前方後円墳はその名の通り四角い方が前(「方」は「四角」の意)、円い方が後ろ)に車を停めてくれて、「この畦道の途中にあるあの白い鳥居が正面だよ。そのまま畦道を突き抜けると池(周濠)に出るから。足元気を付けてね。いってらっしゃい!」と見送ってくれました☆

優しい(*´꒳`*)

そして”角のところ”から歩き始めましたが……これは森!?

同じ古墳でもさっきの茅原大墓古墳とは全然違う感じ。
よく見ると、地面が少しこんもりと盛り上がってるのがわかります。

これも初めて知りましたが、歴代天皇などの格式の高い古墳には鳥居が設けられているんですね。

案内板には「大市墓」と書かれています。「おおいちぼ」と読みます。
こちらが箸墓古墳の正式名称らしいです。

さて、ではこのお墓の主は誰なのか?という問題に触れましょう。

巷で有名なのは卑弥呼のお墓説ですが、公式な情報としては、第7代孝霊天皇の第1皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)のお墓となっています。

孝霊天皇欠史八代(第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇を指す。実在性が曖昧とされていて、現在もその存在の有無について議論が絶えない天皇たち)の1人で、「日本書紀」では大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのみこと)として書かれる天皇です。

孝霊天皇についての記述はあまり多くありませんが、山陰地方を中心に鬼退治伝説が数多く残っているようです。
また、孝霊天皇をお祀りする神社は全国に数社あって、奈良県では磯城郡⽥原本町に孝霊神社(別名:廬⼾(おいと)神社)があります。
その地は元は、紀元前291年に孝霊天皇によって遷都された廬⼾宮(おいとのみや)で、大和政権初期の首都として営まれていた場所。

孝霊天皇の第3皇⼦である吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、⼭陽道を制圧した”四道将軍”の1⼈で「桃太郎」のモデルでもあります。
山陰と山陽を手分けして、父子揃って鬼退治係といったところでしょうか(笑)

因みに吉備津彦命をお祀りする神社が岡山県にある吉備津神社で、期待を裏切ることなく鬼退治の逸話がここにも伝えられています。
立派な神社でぜひ参拝に訪れたいし、きび団子も食べに岡山へも行ってみたいですね。

で、話を元に戻して、倭迹迹日百襲姫命のお墓とされる箸墓古墳は3世紀後半頃の築造とされていますが……あれ?孝霊天皇は西暦に置き換えると紀元前200年頃に亡くなっているという説があって、その皇女である倭迹迹日百襲姫命のお墓が3世紀後半頃に築造??
記紀にある初期の頃の天皇在位の年代表記は西暦でも皇紀でもないので、この数字をどう解釈するか、またそれにも意見が分かれるところでです。

以前読んだ本では─まさしく【一書曰(ある書(ふみ)に曰く)】─、この時代は1年を6ヶ月としていたのではないか、という説があり、その計算でいくと記紀にある月蝕や日蝕のタイミングや、天皇たちのやたらに長い寿命や在位期間も整合性が取れる、と考察されていてナルホドとなりました。

なので初代天皇〜西暦がはっきりわかる前の歴代天皇の在位期間を半分ずつ縮めたら、もしかしたら孝霊天皇が存在していたとされる時代が、箸墓古墳が作られるちょっと前の時代と一致しないだろうか?…面倒なので計算しませんが(笑)

興味のある人、誰かやって(笑)

「倭迹迹日百襲姫命大市墓」と書かれた石柱

倭迹迹日百襲姫命がいつ生まれて、いつこの世を去ったのかは調べてもなかなか出てきませんが、どうやら巫女として扱われてる存在のようです。(これも”説”です)
更に、この姫は日本書紀では大物主命の妻であった記述もあります。
同書の中で、

大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。

と書かれています。
箸墓」という名もこれにより名付けられたそうですが、元は「大市」という地名だったことがわかりました。

また、箸墓古墳について「昼は人が造り、夜は神が造った」という、ちょっと意味深な書かれ方もしています。
これはどういう意味を含んでいるのか…
日本書紀を編纂した舎人親王にザオラルをかけて蘇生させて質問できたらいいのに…

鳥居の反対側には田んぼが普通にあって、畦道を踏み外したらドボンしそうなので気をつけながら移動。

倭迹迹日百襲姫命とはいったいどんな人物なのか?実在の人物なのか?謎が深まるばかりです。

そして俄に囁かれる「卑弥呼のお墓では?」という説について。
これは、

箸墓古墳が日本で最初の巨大古墳である
・3世紀始め頃に出現した当時国内最大の集落跡がある
・埋葬されているのが女性である
・巫女とされている

というようなことが、魏志倭人伝に記される”3世紀前半における邪馬台国”とその”邪馬台国の女王卑弥呼”と同一なのではないか?という説に発展したようです。

「2世紀後半に男王統治としていたこの国に大乱あり、卑弥呼はこの内乱をしずめ30余国を擁立した。呪術的宗教の巫女で夫はなく、政務は弟がかわって行った。景初3(239)年6月に第1回遣使を魏に送り、親魏倭王の称号を受けている」(コトバンクより)、という内容が魏志倭人伝に記述されていて、これが3世紀後半の築造である箸墓古墳と時代や規模が卑弥呼邪馬台国の姿に重なるとされる説ですね。

卑弥呼」という名は、「日巫女」が正しいのではないかという説もあり、であれば天照大御神を信仰する日本人としては納得のモデルとなります。

また魏志倭人伝では、卑弥呼は”呪術的宗教の巫女”と書かれていて、人前に姿を見せないことがまた神秘的で、その謎めいた存在感によって一種の憧れのような感覚を持たせ、これが「卑弥呼のお墓であって欲しい」という仄かな願望を人々に抱かせた一つの要因でもあるのかな。

「人前に姿を見せない」というのは、もしかしたら実在はしてなかった!?または、当時の邪馬台国の人々が”実在してる程”として国民や国外にそういうポーズをしていた!?なんてことも考えられますね。

上記に書いたずれも、日本で一番古い歴史書、記紀には書かれておらず中国の歴史書である魏志倭人伝によるものなので、検証がとても難しいのが実情。

このお墓が卑弥呼のものかそうでないか、確認するにはもう発掘調査をするしか他に手はありません。

しかし…

現在、箸墓古墳は宮内庁に管理されているのでそれは叶いません。
宮内庁が発掘許可を出すことは今後あるのでしょうか?

このお墓の主の傍に、魏(中国)の皇帝から贈られた親魏倭王の称号である金印紫綬(しじゅ)があれば、この議論に終止符が打たれます。

魏志倭人伝に伝えられる卑弥呼は、247年、狗奴(くな)国(邪馬台国の南にある国。九州南部にあった熊襲という説も)と対立し、その戦乱で最期を遂げたよう。

私個人としては、元から箸墓古墳卑弥呼の墓だという説は考えておらず、本当に実在したのか不明な卑弥呼がいた(とされる)邪馬台国九州にあったというのが有力と思っていますが、これは謎解きブログではないので、その件については今回は書きません。
また長くなるし(笑)

しかしながら、卑弥呼については何しろ遥か昔の時代のこと。
現代人は誰もその時代を生きてないし、見てもいないので、「絶対にこうだ!」ということは、現在言い切ることは難しい。

たまにこういった歴史の議論で、意見が違う双方が「それは違います!」「俺が正解だ!」「いーや!俺の方が正解だ!」「エビデンス出せ!」とかやり合って喧嘩してるのを見かけますが、喧嘩するようなことではないです。不毛、不毛(笑)
だって、あんなに大昔のことを現代人が全て理解するなんてそう簡単にはできないですから。
何十年も考古学や歴史を研究して数えきれないほど膨大な国内外の書物を読んでる人たちですら、100%こう!と言えることはごくごく部分的で、それもこぐごく僅か。
数冊の本を読んだり、ちょっとネットで齧ったような情報量で得られる答えなど知れてます。

あ、なんかdisりになってる感。

何が言いたいかというと、「いちいち喧嘩すんな!」ってことです(笑)

「そういう見方もあるんだね」「その説は面白いね」というように、想像を働かせるマテリアルにした方が歴史学や考古学は遥かに面白くなるのではないかな。

リアルタイムで現在目の当たりにしてるものではない過去の歴史には、現代の技術や叡智を以てしても解明できないような遥か上をいく世界が広がっているような気がします。
「ああでもない、こうでもない」とやってる現代人を古代人が見たらどんな感情を抱くでしょうかね( ^ω^ )

意外と「いや、もっとシンプルなんだけどな…」とか言いそう(笑)

墳丘から離れて周濠のほとりを古代に思いを馳せながら歩いてきました。

春には、菜の花や桜が綺麗に咲き誇る姿を見れるようです。

このあたりでいつものように撮影のベスポジを探しつつ、構図を変えながら何枚もしつこく写真を撮っていると、付近にいたおじさん4人ぐらいのチームの方に「古墳が好きなんですか?」と話しかけられました。

いやぁ、実は初古墳でして…旅行で札幌から来ています、なんて言うとここでもお決まりで「えぇ!?札幌から!?」と。

聞くところによると、その方々はボランティアで纏向遺跡の案内人をやってる方々でした。
この日は、数日後に案内する依頼者のための案内コースの確認とシミュレーションに来ている、とのこと。
同じく発掘作業もボランティアでやってる方々でした。

また偶然にも面白い出会いだなぁ〜!ってちょっと興奮して、「発掘やってみたいんですよねぇ〜!」とか色々ダベりました。
私がダベるのは神職さんだけではないです(笑)

お相手の方も発掘や箸墓古墳について快く色々教えてくださいました。
中でも興味深かったのは、古墳の主の埋葬のされ方。

この時代の前方後円墳は、角度はバラバラだけど中の棺は北枕で埋葬されている、ということ。
前方後円墳の円になってる部分に棺が埋葬され、前の部分の”方”が祭壇になっているわけだけど、その棺は前方後円墳の角度と並行に置かれてるのではなく、前方後円墳の向きに関わらず頭部が北にされて埋葬されているということです。
つまり、古墳と棺の向きがチグハグ。

ナンデ古墳も北に合わせて作ったりしないの?と思うんだけど、何か理由があってそうしてはいないらしい。
いや、逆に特に何も考えてないのかも(笑)
方角とか考えず立地とかに合わせて墳丘を作っただけで、中の棺の向きはその時代の北枕ブームに合わせてそうしただけ、とかかも(笑)

ボランティアの方に「この古墳の主も北枕なんですか?」と伺うと、やっぱり発掘調査にGOが出てないので真相はわからないが、他のこのあたりの古墳群と同じなら、中の棺は北枕になってるはず、と。

「なるほど。それはぜひ実際どうなってるのか知りたいですよね〜。金印もあるかどうか確認したいですね!」というと「いやー!(発掘)やりたいですねぇ〜!」とめちゃくちゃ気持ちを込めた感じで(笑)

私でさえ発掘して中の様子を知りたいと思うから、ボランティアで遺跡案内をしてる方々からすると、夜中に侵入してでも…ってぐらい発掘したいでしょうね!(笑)
リスキー。

その方が教えてくれたんですが、地域の発掘調査隊が発掘作業のボランティアを募っていることもあるらしく、一般参加もできるそうです。(抽選の場合は落選しなければ)

それは知らなかった!

ネットとかで検索したら出てくると思うよ、と教えてくれたので札幌に戻ったら探してみよう!と思い……思っただけでまだ検索してない(笑)

でも参加したい!
そして何か発見して自慢したい!(邪な動機)

箸墓古墳(大市墓)

旅行(本人は取材旅行のつもり)するとなぜか現地の方に話しかけられることが多く、ちょっと非日常な出会いがあって、レア情報なども教えてもらったり、何でもない自己満足の旅が更に面白いものになるのが私の旅の特徴だなぁって思います。

そのボランティアの方からは、その方が使い込んで愛用していた大きなパンフレットをいただいて、それが今回の記事を書くのにとても役立っています。

このブログを読んでくださってる可能性はとても低いと思いますが、本当に親切にしていただいたこと、この場を借りて改めてお礼を申し述べたいです。(読んでくれてるといいなぁ〜)

その方に古墳群を回って辻地区建物群にも行きたい旨を伝えると、こう行ってああ行って最後に辻地区建物群に行くようにすると帰りの駅も近いし大体この地区は回れるよ、と教えてくれました。

本当に親切!

「ではそのルートで行ってみます!色々教えてくださって貴重なお話も聞かせてくださってありがとうございました!」と手を振り、次の古墳へと。

旅は本当に楽しい♪(*´꒳`*)



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