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前回の記事の月読神社を後にして、京都で古い神社の一つ、松尾大社へ向かいました。
今回の京都の旅はこれがラストです。
『松尾大社(まつのおたいしゃ)』
所在地 京都府京都市西京区嵐山宮町3
御祭神 大山咋神(おおやまぐいのかみ)
中津島姫命(なかつしまひめのみこと)=市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
社格 式内社
例祭 4月2日
鳥居 明神鳥居
社殿様式 三間社両流造檜皮葺(松尾造)
【由緒】
[磐座祭祀]
当社の御祭神“大山咋神”は、当社社殿建立の飛鳥時代の頃に、始めてこの場所に祀られたものではなく、それ以前の太古の昔よりこの地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇したのが始まりと伝えられております。
[秦氏来住]
五・六世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている)秦(はた)氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住すると、その首長は松尾山の神を同族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもってこの地方の開拓に従事したと伝えられております。
[秦氏の開拓]
伝説によると……
……「大山咋神は丹波国が湖であった大昔、住民の要望により保津峡を開き、その土を積まれたのが亀山・荒子山(あらしやま)となった。そのおかげで丹波国では湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った。そこでこの神は山城・丹波の開発につとめられた神である。」……
と申すのも、秦氏がこの大山咋神のご神威を仰ぎつつ、この地方一帯の開拓に当たったことを示すものと言えます。
[大堰と用水路]
また秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の「渡月橋」のやや少し上流には大きな堰(せき=大堰→大井と言う起源)を作り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を農耕地へと開発して行ったと伝えられております。
その水路を一ノ井・二ノ井などと称し、今現在も当社境内地内を通っております。
[酒造神]
農業が進むと次第に他の諸産業も興り、絹織物なども盛んに作られるようになったようです。
酒造については秦一族の特技とされ、桂川に堤防を築き、秦氏に「酒」という字の付いた人が多かったことからも酒造との関わり合いが推察できます。
室町時代末期以降、当松尾大社が「日本第一酒造神」と仰がれ給う由来はここにあります。
[平安京誘引]
時代と共に経済力と工業力を掌握した秦氏は、大和時代以後朝廷の財務官吏として活躍し、奈良時代の政治が行き詰まると、長岡京へ、次に平安京へ遷都を誘引したのも秦氏の膨大な勢力によるものであったことが定説となっております。
〔神殿の造営〕
文武天皇の大宝元年(西暦701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて、山麓の現在地に神殿を営み、山上の磐座の神霊をこの社殿に移し、その女の知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕し、この子孫が明治初年まで当社の幹部神職を勤めた秦氏(松尾・東・南とも称した)です。
〔松尾社と平安遷都〕
上代において秦氏を始めとする山城・丹波の住民から、農産業、土木工業の守神と仰がれた当社は、平安時代以降朝廷の守護神とされるに至りました。桓武天皇は延暦3年(西暦784)11月、都を長岡京(現在の京都府長岡京市)に移されると、勅使を派してこれをご奉告になり、秦氏の邸宅に御所を営まれましたが、まもなく平安京に都を移されると、当社と賀茂神社とを皇城鎮護の社とされ、賀茂の厳神、松尾の猛霊と並び称されて、ご崇敬はいよいよ厚く加わるに至りました。
〔神階昇叙〕
仁明天皇は、承和年間(834~847)に勅使を遣わして奉幣あらせられ神階を従三位に昇せ、文徳天皇は仁寿2年(852)に正二位を、清和天皇は貞観元年(859)に正一位に進められ、後に勲一等に叙せられました。
〔二十二社〕
醍醐天皇の御代に編修された延喜式(927年撰上)には、二神とも名神大社に列せられているのですが、その後二十二社の制が立てられると、その第四位に記されるに至りました。
〔皇室の参拝祈願〕
一条・後一条・後朱雀・後三条・堀川・崇徳・近衛・後鳥羽・順徳の各天皇は行幸参拝あらせられ、清和・後白河両天皇はご神宝をご奉納、仁明天皇は病気平癒を、清和天皇は甘雨を、村上天皇は皇居並びに京師の安泰をそれぞれご祈願あらせられました。
〔荘 園〕
平安時代には前述のような状況で、社頭は極めて栄え、社領も遠近各地に散在しており、丹波国の雀部庄、小川庄、天田川庄、摂津国の山本庄、越中国の松永庄、甲斐国の巨摩庄、遠江国の池田庄、伯耆国の竹田郷、三朝郷、東郷庄、豊前国の門司関などが著名です。
〔分霊社〕
また当社のご分霊を勧請して各地に祀ることも盛んで、現在全国に存するご分霊社一千三百余の内には、この時代に創設されたものが相当あったと云われております。
〔武門の崇敬〕
鎌倉時代に入ると、源 頼朝公は社参して願文を奉納し、黄金百両、神馬十頭を献じましたが、以後も武門の崇敬は続き、将軍足利義政、豊臣秀吉も神馬を献じました。
〔江戸時代〕
江戸時代には、ご朱印の社領千三百三十三石を有し、また嵐山一帯の山林一千余町歩を持っており、奉仕する神職は三十三名、神宮寺の社僧は十余名、筆頭の神主・秦氏は累代三位の昇せられ、また幕末には、勅使を派遣される勅祭社に擬せられたこともあったのです。
〔明治時代以降〕
諸政一新の明治4年になると、全国神社中第四位の序列をもって官幣大社に列せられ、政府が神職の任命や社殿の管理などを行う国の管轄となり、大正11年には皇后陛下ご参拝あそばされ、終戦直後には梨本宮妃殿下がご参拝なされました。また天皇陛下よりはしばしば神饌幣帛料をご奉納なされました。
終戦後は、国家管理の廃止により、官幣大社の称号も用いないことになったことから、同名神社との混同を避けるために昭和25年に松尾大社と改称し現在に至っております。
長い由緒ですが、こういうのは面倒がらずにちゃんと読むと、その神社の歴史のみならず時代背景や情景も浮かんできて理解が深まります。
「へ〜!そうだったんだ!」みたいな発見もあったりして面白いですよ。
学生のころは「過去は振り返らないタイプ」と称して(笑)、歴史が苦手だった私も神社のおかげで好きになりました。
ファンが多い戦国時代の三大武将も神社には関わっていたんですよ(^-^)
わかりやすい駅名「松尾大社」駅で下車して数分の距離に松尾大社はあります。
駅名は「まつおたいしゃ」となっていますがホームページには「まつのお」と表記されているため、正式には「まつのおたいしゃ」のようです。
大きな朱の鳥居が目に入るので迷いようがないと思います。
鳥居の右側の建物は京都神社庁です。
参道は地域住民の方も往き来する感じ。
参道の途中に橋が架けられていますが、桂川からの支流が注ぎ込んでいて、この川はまた桂川と合流します。
二の鳥居をくぐらず左へ行くと月読神社があります。
あの社額の下にぶら下がってるのが何なのか気になったので調べてみました。
これは「脇勧請(わきかんじょう)」といって榊の束らしいです。
その年の月の数だけぶら下げるらしく、通常は12個ですが閏年はひとつ増えて13個になるそうです。
昔はこの榊の枯れ具合でその年の農作物の出来、不出来を占っていたそうなんですが、詳しい資料などがないので占いの仕方はわかっていないそうです。
本殿へ向かう途中に誘惑が…
上の写真は松尾大社オリジナルのお漬物屋さん「京つけもの もり」さんと、茶色の屋根が「お酒の資料館」。
酒造については秦一族の特技とされていて、酒造の歴史を垣間見ることのできる資料館です。
下の写真はお茶屋。
みたらし団子…食べたい…
しかしちゃんと神様にご挨拶をしてから!ということでまず拝殿へ。
結局帰りは寄らずにお漬物だけお土産で買って帰りました。
立派な楼門ですね。
随身門の両側に配置されてる随神(ずいじん)は江戸時代初期のものだそうです。
随身の周囲に張り巡らせた金網にはたくさんの杓子が。
道民の私にとってはなかなか珍しく感じるのですが、この風習は願い事を記して掲げておけば救われると言う信仰にあるそうです。
祈願杓子というそうです。
でもどうして杓子なの??
あの向こうに見えるのが拝殿ですね。
手水舎でお清めをしていると、そこにいた年輩の女性が、
「こっちは暑いでしょう。奥の方にね、滝があるの。後で行ってみて!そこの水は本当は飲んじゃいけないんだけど、”見物です”って言って滝の水を飲んでごらん。亀の方じゃなて滝の方ね!」
無邪気な感じでこう言うんです。
「滝があるんですか?行ってみます!」
とお返事をして、ちょっと世間話をしてご挨拶をして手水舎を離れましたが、ふと、
「どうしていきなり滝の話をしてきたんだろう?」
と不思議に思いました。
そんなに地元じゃない人感が出ていたかな?
その滝とやらも私が知ってるかもしれないのに、確実に知らないと思って教えてくれたのかな?
にしてもなぜ今このタイミングでいきなり滝の話を?
そういえば出発の日、札幌駅から新千歳空港へ向かうJRの中でも不思議なことがあったんです。
向こうからファ〜〜っと車掌さんが歩いてきて、ピタッと私の目の前で立ち止まり、
「あっちは暑いからねぇ〜!熱中症にならないように気を付けてね!」
と言ってまたファ〜〜歩いていなくなりました。
突然だったので「え?あ、はい!」と愛想笑い付きでお返事しましたが、5秒御ぐらいに「何故!?」と謎に感じてビックリしました。
どうして暑いところへ行くってわかったんだろ!?
なぜ私だけに話しかけたん!?
そこそこ混み合っていた車内で私だけピンポイントで話しかけてきたのも不思議だし、確かにトランクは持っていたにせよJRの車内にいる段階で私がどこへ行くのかなんて他人にわからないじゃないですか!?
そもそも道内の可能性もあるし空港に行くとも限らないし何だったら地元が札幌じゃないかもしれない、そして空港へ行ったとしても関東や関西へ行くとも限らず、スイスだったりノルウェーだったりロシアっだりするかもしれないじゃないですか?
東北だってありえるし!
なのに何故、熱中症に気を付けなければならない暑い地域へ行くとわかったのか?
旅の始まりからそんなことがあって、松尾大社でも「?」と思うことがあって、なんかちょっと面白い旅です(笑)
手水舎の水は亀が注いでくれています。
松尾大社の眷属は亀と鯉。
境内にはあちこちに亀と鯉がいますよ。
本殿の背後は山で青々とした木々が茂っています。
神輿庫の正面にはたくさんの酒樽が積まれていました!
さすが「日本第一酒造神」!
伏見稲荷大社にもあった重軽の石、ここにもありました。
絵馬掛けを正面から見ると…
中に何かあります。
相生の松と書いてあります。
松の幹がお祀りされていますが、恋愛成就・夫婦和合のご利益があるようですね。
松尾大社の神様のお使い、「幸運の撫で亀」と「幸運の双鯉」。
樹齢800年の霊樹。
もう枯朽してしまって生きてはいませんが、その姿を留めてお祀りしているそうです。
雉鳩の鳴き声が聞こえるなぁと思ったらこんなとこにいました。
しかも休憩の仕方!(笑)
こんな体勢をしてるもんだから怪我でもしてるのかと近づいてみたら普通に歩いてスタスタスタといなくなりました(笑)
拝殿の右側に広がる敷地。
建物があるので行ってみました。
ん!?
こんなところにトンネル!?
いや、トンネルではないけど階段!?
ここは入っていいのかな?…と恐る恐る侵入。
なんか開けたとこに出た!
お社っぽいのも見えるし受付っぽいのもあるし!
どうやら「松風園」という庭園らしい。
通路の右にお庭が広がっていたのでそちらへ行こうとしたら、曲がり角にある受付みたいな所のおじさんに、「そっちは有料なんだ。あっちの滝の方は無料だよ」と引きとめられました。
滝!?
あの手水舎で話しかけてくれた女性が言ってた滝のことか…!!
と、踵を返して”あっちの滝”の方へ向かいました。
立札に「滝御前(たきごぜん)」と書いてある…近いぞ…
このお社の手前に手水舎…
と思ったら「神泉」と書いてある!
そして写真では暗くて見えませんが井戸のような形の上に亀が乗っていていました。
手水舎じゃなくて亀の井だ!
別名「よみがえりの水」とも言われているそうです。
ここであの手水舎のご婦人が言っていたことを思い出しました。
「亀の方じゃなくて、滝の方」
そう言ってたっけ…
しかも「亀の方のはもう飲めないから…」とも言っていた。
このブログを書くために松尾大社について色々調べていたら、この「亀の井」の水は滝からの霊泉で、酒造家はこの水を酒の元水として造り水に混和して用い、また“延命長寿”“蘇り”の水としても有名とのことでした。
滝は「霊亀の滝」といい、この滝の水は現在も茶道や書道用の水や家庭用水として早朝の開門と同時に酌みにくる方も多いようです。
今更だけど、そうなると益々あのご婦人の言葉が気になる…
飲用できるのに「亀の方は飲めない」と何故言ったんだろう??
「亀の井」からふと左に目をやると奥に赤いものが!!
あ、あれは…!!
川も鳥居の方向から流れてきている!
正しく滝!!
間違いなくここだ!
「天狗岩」というのもあるのか。
ここの空間は滝があるせいかとても清々しく、本殿のある方とはまた違った空気感でした。
素直に”神聖”という感しがしました。
小さなお社の横に謎の石が。
ちょっと可愛い…
滝は上の奥の方から細く流れ出ていました。
これが「霊亀の滝」のようです。
昔、ここで珍しい亀が見つかったという話もあります。
で、空港に着いてから思い出したんですが…
滝の水飲むの忘れたーーーーーーー!!!!!(笑)
せっかくあの女性が教えてくれたのに!!!
凄い大事!!(笑)
だけど、あの場に居ただけで癒されたからいいか…
いやでもやっぱり飲んだ方が良かったかな…
亀の井の水がよみがえりの水なら、この霊亀の滝はもっとよみがえりそう…
などと色々思いましたが時すでに遅し(笑)
因みに天狗岩は上部の細い滝のすぐ左にちゃんとありました。
わかりますか?
答え合わせ。
お粗末な絵でスミマセン(笑)
そんなこんなで今回の旅は終了です。
恒例で551蓬莱で豚まんとシュウマイを買って帰りました。(好きすぎる)
伏見稲荷大社の稲荷山の登頂と、松尾大社の霊亀の滝の水を飲むという課題を残して(笑)
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