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函館シリーズの続きです。
函館八幡宮の次に向かったのはこちらの函館護國神社です。
御朱印はコチラ→ 御朱印 函館護國神社(はこだてごこくじんじゃ)
『函館護国神社(はこだてごこくじんじゃ)』
所在地 函館市青柳町9−23
御祭神 幕末から昭和にかけて国家のために尊い命を捧げられた英霊13,000余柱
社格 旧指定護国神社
例祭 5月10日〜5月12日
鳥居 明神鳥居
社殿様式 春日造
【由緒】
明治2年5月17日 戊辰戦争において新政府軍と旧幕府軍の最後の戦闘であった箱館戦争が終結した。
明治2年5月18日 旧幕府軍の本拠地であった五稜郭が新政府軍に引き渡された。
明治2年5月21日 官軍総督清水谷公孝が発企し、市内大森浜で祭壇を設けて招魂祭を執行した。
明治2年9月5日 現在地に兵部省によって招魂社が創建され、9月5日から7日までの3日間にわたり盛大な祭典が執行された。
明治7年 招魂社が開拓使に引継がれ、官祭招魂社となり、爾来、箱館戦争の終結記念日である5月11日を以て祭日と定めて招魂祭が執行されることになった。
昭和14年3月15日 内務省令第12号「招魂社ヲ護國神社ト改称するノ件」により函館招魂社は函館護國神社と改称され、北海道内では、旭川市の北海道護國神社、札幌市の札幌護國神社とともに内務大臣指定の護國神社となった。
昭和14年4月1日 社司太田 紀が就任した。
昭和14年8月 境内の大改修、社殿の御造営のため函館市内の有志を集めて、当時の函館市長を会長とする御造営奉賛会が発足し、境内の整備が開始された。
昭和17年10月12日 本殿、拝殿、翼舎、斎館、社務所が竣工し、盛大な遷座際が執行された。
昭和21年10月1日 連合国軍最高司令部総司令部(GHQ)の神道指令により社号が「潮見が丘神社」と改称された。
昭和23年4月1日 宮司太田 紀が退任し、後任として宮司伊達 巽が就任した。
昭和28年4月1日 宮司伊達 巽が退任し、後任として宮司佐伯芳彦が就任した。。
昭和29年11月1日 社号が函館護國神社に復した。
昭和29年9月 洞爺丸台風により御社殿、社務所、境内樹木に多大な被害が発生した。
昭和33年4月1日 宮司佐伯芳彦が退任し、後任として宮司真崎宗次が就任した。
昭和33年7月7日 東宮殿下(現在の天皇陛下)の御参拝を仰ぎ、幣帛料が御下賜された。
昭和36年5月28日 秩父宮妃殿下が御参拝され、境内隣接の官修墳墓にも御参詣された。
昭和37年11月 函館護國神社御造営奉賛会が結成され、奉賛会総裁に町村金五氏、会長には登坂良作氏が選任され、御屋根のふき替え、境内の整備、斎館その他の修理、それに要する費用の募金活動が開始された。
昭和39年4月20日 御造営奉賛会の第1期工事である御屋根銅板ぶき工事の起工際が執行され、同年9月に竣工した。御屋根替竣工写真
昭和40年7月17日 高松宮妃殿下が御参拝された。高松宮妃殿下御参拝
昭和44年5月11日 函館護國神社の御創立100年記念例大祭が執行された。
昭和59年4月1日 宮司真崎宗次が逝去し、後任として宮司真崎不二彦が就任した。
(函館護国神社より引用)
護国神社は全国に52社(靖国神社は除く)ある護國神社のうちの3社が道内にあり、函館の他に札幌と旭川に建てられています。
神社の紹介の前に少し歴史の話をさせていただきたく候。
靖國神社は明治2年に明治天皇によって建てられた「招魂社(しょうこんしゃ)」がはじまりで、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を後世に伝えることを目的とされた神社です。
過去に日本の大きな過渡期がありました。
明治維新。
長らく日本を治めていた鎖国派である徳川幕府と開国派の対立が激化し、危機的状況に陥った徳川幕府が再度、政権を天皇に返上したという歴史がありました。
ただ、返上しただけで混沌とした日本が平安を取り戻すことにはならず、そこから戊辰戦争へと突入していきます。
戊辰戦争では新政府軍と対立する旧幕府軍の多くの人命が失われました・・・
そこで明治天皇はこの日本のために尊い命を捧げたその御霊を慰めるため、東京の現在の靖国神社の前身となる「招魂社」を明治2年に創建されました。
その後、名前を「靖國神社」と変えるわけですが、「靖国」という名前には「国を靖(安)んずる」という意味で、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められているそうです。
今でこそ靖国神社は第二次世界大戦のイメージが強いですが、ちょうど今から150年前に建てられた際にはそんな大きな戦争が起こるなんて考えていなかったでしょうね。
少し話が飛びましたが、戊辰戦争の終結の地といえばここ、函館です。
新撰組の「鬼の副長」として名高い土方 歳三(ひじかた としぞう)が最期を遂げたのが函館でした。
歴史上の人物で彼のファンだという方もとても多いと思います。
私も好きな方ですが。
土方歳三は戊辰戦争で旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、最後の戦場となった箱館五稜郭防衛戦で狙撃を受けて戦死。(函館の漢字は元は「箱館」と表記されていました)
榎本武揚(えのもと たけあき)、土方歳三らが率いる旧幕府軍はここで戦いに負け、後に土方がいなくなった旧幕府軍の残党となる榎本武揚らが同じく函館市内にある亀田八幡宮で新政府軍に降伏し、長い戦いとなった戊辰戦争はそこに終結しました。
亀田八幡宮は後ほどまた記事にしますが、旧拝殿には総攻撃の銃撃戦で残された銃弾の跡が今もそのままにしてあります。
このような、今の日本にとって重大な大きな歴史の一幕が函館にありました。
こういうのを目の当たりにすると心が揺さぶられる感覚に陥ります。
その土地の歴史を知って歩くのと知らないで歩くのとでは全然感覚が違います。
これから函館に行かれれるという方には是非、函館はこんな歴史の舞台だったんだなぁ〜と感じつつ神社巡り、函館巡りをしていただきたくて歴史に触れておきました。
場所は夜景で人気の函館山の麓。
前回の記事の函館八幡宮の前を横切る大きな通りを道なりに進んでいくとすぐに見つけられます。
このような海が見える坂の上に函館護國神社はあります。
とにかく函館は山と海というロケーションなのでちょっと、小樽市同様に小高い場所から眼下を見下ろすと大体は良い景色です(笑)。
また近くに有名な函館ハリストス正教会などの歴史的な建物も多く、常に観光客が訪れていいます。
階段を上がり鳥居を抜けると正面に見事な扇状のお社が現れました!
ちょっとマニアックなんですが、私は古木の香りや色が好きで、これぐらい年季の入った風合いがとても好きです。
特に何故か古木の香りは心が落ち着くんですよね…
共感してくださる方はいるかな?
北海道は去年、「北海道」と命名されて150年を迎えたばかりで歴史が浅いのでなかなか古い建物はありませんが、函館は道内でも歴史を感じる建築物が多いです。
もちろん、世界で唯一の貴重なアイヌ文化を踏まえて考えた場合、もっと遥か昔から”蝦夷”の歴史は刻まれています。
函館八幡宮から移動してきた時には雨がポツポツ降っていたんですが、ここへきたらまた太陽ができたんです。
写真ではわかりにくいけど…
たまたまかもしれないけど…いや、たまたまかな。
でね、お社の右手奥に、先の函館戦争で亡くなった方々を埋葬している新政府軍の墓があるんですが…
ちょっと私、そこへは入れなくて…
入れないというか、ちょっとアレで。
アカンとことかは頭痛がしたり足が前に出なくなったりしちゃうので…
でもあくまでも私の感覚です。
だし、霊能者とかでもないし。
「誰だお前」「何しにきた」「見世物じゃないんだ」って言ってる感じがして、一斉にみんなこっちを見ていて、睨まれてる感じがして…
静かに眠っていたのに起こされたくないっていうような、うまく表現できませんが…
2回言いますが、あくまでも私の感覚です。
神社の名誉のためにお伝えしておきますが、きちんと綺麗に清掃されていますし不快感があるとかそういうのじゃなくて、あくまでも私が個人的に入れなかった、というお話です。
なので、申し訳なくもその墓地の写真はないんですが(墓地だし)、もしご覧になりたいという方は函館護国神社のHPで閲覧できますよ。
私達のご先祖様や祖父母が眠るお墓と同じなので、訪れる場合には真摯な気持ちでお参りしてくださいね。
御子孫などもお墓参りもしてると思いますし、あくまでも人様のお墓ですので、くれぐれも失礼の内容にとお願いしておきます。
私はどこから目線なんでしょうか?(笑)
函館シリーズ、まだまだ続きます。
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