神社・仏閣ランキング
ポチポチしていただけると喜びます
奈良巡り2日目(まだ二日目!)の最終目的地は纏向(まきむく)遺跡のメイン、纏向遺跡辻地区大型建物群跡(庄内式期中枢地域)です!
3世紀前半に建てられたとみられる建物群で、「住居跡」や「辻地区」や「纏向遺跡」など様々な呼び方をされますが、どうやら纏向遺跡辻地区大型建物群跡が正式名称みたい。
基本的に「纏向遺跡」というと、古墳群も含めたこの辺り一体の遺跡のことで(数がかなりあります)、古墳群は「纏向古墳群」、この建物群跡は「辻地区」と地域名で呼ばれることが多いようです。
アクセスはJR巻向駅から徒歩で5分ほど。
列車内からも見える、わかりやすい場所にあるので迷うことはありません。(よっぽどの方向音痴じゃなければ)
まずザッと解説。
この建物群跡は3世紀前半に建てられたものとされていますが、3世紀の中頃には建築材の抜き取りが行われ、移転または廃絶したことが判明しています。
中心的な役割を果たしたであろう大型の掘立柱建物(地面に穴を掘り窪めて、礎石を用いずそのまま柱を立て地面を底床とした建物)は、約19.2m×約12.4mで復元することができ、当時としては国内最大を誇っていたようです。
位置的、規模的、そして建物が規則正しく配置されていることなどから、3世紀前半の纏向遺跡の居館域となる可能性が高いと考えられています。
それでは、纏向遺跡辻地区大型建物群跡に凸!
あ、この辺りは普通に住宅街です!(笑)
住宅に囲まれた中に広いスペースがあって、柱がたくさん建てられています。
私がここを調査(←)してる間、近くの家で飼ってる犬にずっと吠えられてました。(怪しい人間と思われたのか?)
ほんとずっと吠えてた。
このたくさんの柱は、遺跡にあった窪みに木製の柱を立て、建物の掘立柱を復元したもの。(もちろん長さは短くしてあります)
全体像の復元模型はこんな感じです。
伊勢神宮や熱田神宮など神宮レベルの大きな神社へ行ったことがある方はハッ!となったと思いますが、建築様式が神社に似ているんですよねぇ〜。
御門があって、その奥に拝殿があって、そしてその奥に本殿があって、瑞垣で囲ってあって…という感じで本当にそっくり。
この辺りで発掘された豊富な土器や木製品は、「延喜式(えんぎしき)」(平安中期に編纂された律令の施行細則をまとめた法典)にある新嘗祭(にいなめさい。現在の11月23日の”勤労感謝の日”に行われる祭事)で用いるものと共通点が多いことが指摘されていて、3世紀前半にこの場所で「延喜式」でいう「ニイナメオスクニ儀礼」が行われていたと考えられています。
手前の小さな建物跡の位置から見るとこんな感じ。
この柱の通りに家を建てた感じを想像してみましたが、そこそこの豪邸。
アホみたいに広い感じはありませんが、決して小さくはないです。
平家一戸建て。贅沢だ。
逆側へ周り、一番奥の大きな建物跡からの景色はこんな感じ。
3世紀の人々がこんな風に規則正しく柱を立ててたことが、何気に凄いですよね。(多少のズレはご愛嬌)
また、この建物は数度ずれてはいますが東西軸に建てられています。
新嘗祭に使う用品が出土していたり、神社でいう瑞垣のような塀に囲まれてる様子を見ると、一番大きな建物または真ん中にある建物が拝殿、そして瑞垣の袋小路部分位ある小さめの建物が本殿とも推測でき、現在の神社の主なスタイルである東向きに建てられたことが考えられます。
この建物群が東西軸に対して少しの傾きがあるのは、倒れかけの駒のように22°~24.5°の間で地軸の傾きが変化する地球の影響かもしれません。(実は今の北極星と昔の北極星は別の星。それはこの地軸の運動によって”真北”が変わるからです。”北極星”とは、その時代に真北にある星を指します)
もちろんこれらのことは私の推測ですが、もしそうであれば現在の神社のスタイルは、少なくとも3世紀前半から連綿と受け継がれている、ということも言えると思います。
纏向遺跡辻地区大型建物群跡は「居館域」とも言われていて、人が住んでいた建物であるという説もあります。
これほどの規模の建物があったということは、この建物を住居に使用していなくても、近くには人が住んでいたというのは簡単に想像できます。
このあたりでは桃の種やカエルの骨なども見つかっていることも、その説の裏付けに繋がるのかもしれません。
ただ、ひょっとしたらその桃やカエルは祭壇にお供えしたものかもしれないなぁ〜…
なんてまた妄想を膨らませたり。
古事記で伊邪那岐尊が黄泉の国のバケモノに桃を投げつけて退治したりするクダリがあるように、古来より桃は魔除けとされてきましたし、諏訪大社ではカエルを※%△&@!♪★〒する儀式なんかもあるので…どうなんでしょうね?
てか、建物Aの説明書きの写真を撮るのを忘れたっぽい。
建物Aの写真はフォルダを探しても見当たらないので、やっぱり撮り忘れたっぽいです。
まあいいや。
ともあれ、こちらが全体像。
柱が一糸乱れずといった感じで、ビシィーッ!とキマってますよね!
あ、そうそう。
この纏向遺跡辻地区大型建物群跡は、卑弥呼とかが住んでいたのでは!?という説が一部であります。
そして卑弥呼が亡くなった後は近くの箸墓古墳に埋葬されたのでは!?という説に繋がるワケですが、箸墓古墳の回で少し触れたように、私は邪馬台国は九州にあった説が有力かなぁ〜と思っています。
この「邪馬台国はどこにあったのか問題」については常にバトルがあちこちで起こっています(笑)
当然、大昔の過去へ戻れないので誰も正解を確認をすることはできず、想像の域を超えません。
まぁだからこそロマンがあったりするので、「それは違います!!」とか「俺が正解!!俺の話を聞け!!5分だけでもいい!!」とか論争し合うのはナンセンスだと感じています。
だって、誰にも正解わからんし( ´_ゝ`)
色んな説があっても、全て何かをヒントとした想像でしかないですからね。
実際に当時を見たわけでもないのに、「それは間違い!こちらが正しい!!」とムキになってやるのは、自分の価値観の押し付けにしかなりません。
しかも長年研究してきてたワケでもないような、言わば素人がそんなことをして何になるのか、と。
昨今は、本当にそういうシーンを結構見ます。
せっかくの楽しい妄想談義が途端に険悪なムードになるので、ムキにならずに妄想を楽しみましょう(笑)
過去を覗きに行けたらいいですよねぇ♪
あ、あとこの記事を読みながら、「”卑弥呼”の漢字は本当はその漢字ではなく”日巫女”なのに、こいつ知らんのか」と思ってらっしゃる方がいるかもしれません(笑)
その説は知っていますが、このブログではマニアックじゃない方にも伝わるように、「卑弥呼」で統一しています。
「卑弥呼であってるじゃん。え?間違ってるの?」という方に軽く説明をすると、「卑弥呼」という漢字は、「魏志倭人伝」を編纂した中国人が付けた漢字が元になっています。
「邪馬台国」も同じく。
これらの呼称は、現存する日本最古の歴史書である記紀には出てきません。
じゃあこの卑弥呼ってのは誰なん?という部分ですが、今日に至るまでの長い間、謎に包まれたままです。
一説には、上で述べた”「卑弥呼」は「日巫女」が正しい日本での表記説”があります。
この場合、”日の巫女”なので当時の斎王を指すのか?とも想像ができます。
なぜ記紀には卑弥呼や邪馬台国のことが書かれていないのか?という疑問が湧いてきますね。
記紀が編纂されたのは8世紀初期。
それ以前の書物はあったのかもしれないし、それを紛失してしまったのかもしれないし、なかったのかもしれない…どれかは不明です。
そして、実は中国に複数ある古書でも「卑弥呼」や「邪馬台国」が出てくるのは「魏志倭人伝」のみ。
その中の第30巻「烏丸鮮卑東夷伝」にごく僅か書かれているだけ。
地球上どこを探しても、「魏志倭人伝」のこの部分にしか「卑弥呼」と「邪馬台国」は出てきません。
更に、「邪馬台国」という表記は学校でもそう習いますが、原文では「邪馬壹國(やまいちこく)」と書かれています。
つまり、「邪馬台国」は存在しない!(笑)
…と言ってしまえばそれまでですが、実際には「邪馬壹國」が後の書物で引用される際に「邪馬台国」になった説があります。
「壱」の旧字が「壹」。
「台」の旧字が「臺」。
「壹」と「臺」ってまぁ似てますよね。
写し損じってのも強ちなくもない、むしろありそう(笑)
因みに「卑弥呼」は旧字では「卑彌呼」という表記。
「烏丸鮮卑東夷伝」では、魏に朝貢していた邪馬壹國とその周辺国について書かれています。
匈奴と東胡の争いの後、邪馬壹國が朝貢国となっていますが、タイトルにある「東夷」とは、皇帝がいる中心国から見て”東の異民族”の総称であり、それが中国大陸の中なのか、海を越えた日本なのかということは、ちょっとよくわかんないよねってのが実情のようです。
同書で「卑弥呼」について書かれている原文は以下。
「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑彌呼」
この原文を”忠実に”訳すと、
其の国本亦男子を以て王と為す、住まること七、八十年。倭国乱れ相功伐すること暦年。即ち共に一女子を立てて王と為す。名曰く卑彌と呼ぶ。
という意味になるようです。
最後の「名曰卑彌呼」の部分が、江戸時代に「名曰く卑弥呼である」というように、”呼”まで名前に含めて訳したことから、現代でもこの女王の名を「卑弥呼」と認識されるに至る、と。(これも一説によると、です)
卑彌(卑弥)と呼ばれる女性……
この説がもし正しければ衝撃的事実!!(笑)
みんな卑弥呼、卑弥呼言うてますが、正しくは「卑弥」という名前かも!?
つまり、「ヒミコ」という呼称は、日本人が勝手に「呼」の部分まで入れて「卑弥呼」と訳しただけ…
仮にこれが本当だとしたら、色んなことがひっくり返ってしまうから今更修正できんわな…(笑)
誤りなら修正すべきだけど、実際はどうなんでしょう。
私個人としてはこの説は正しいような気がします。何となく。
DeepLなどで上記の漢文を訳すと「パーミフー(「卑彌呼」の中国語読み)という女の王様を作った」と出てきます。
「呼」も含む呼称で訳されるのは、アルゴリズムで「卑弥呼」を人名として記憶している可能性もあるのかな?日本語訳なので考えられるかも。
「卑彌呼」なのか「卑彌」なのかは不明であっても、中国語の発音だと今も昔も「卑彌」は「ペミ(ぺィミ)」と発音、「呼」は「フー」。
「ペミ(ぺィミ)フー」という発音になります。
「卑彌呼」だけで翻訳すると日本の漢字で「卑弥呼」と出てきますが、一文字ずつ翻訳すると「ぺ・ミ・フー」とかって出てきます。
やっぱり「ヒミコ」とは発音しないようです。
そうなると「魏志倭人伝」に書かれる邪馬台国の女王は「卑彌呼」であっても「卑彌」であっても、読みが違うので皆さんが思い浮かべる「卑弥呼(ヒミコ)」とは別人となりますし、少なくとも”日巫女(ヒミコ)説”はここで消えたワケです!(笑)
因みに「女」の中国語読みは「ヌー」なので、こじつけようにもちょっと難しいですね(笑)
「ヒミコ」という発音の呼称は、ナント、JAPANオリジナルでした!というオチ。
そもそも、「卑彌呼」と「邪馬壹國」について書かれた文献は、引用されたものを除外して「魏志倭人伝」の他にないので、”勝者の歴史”である歴史書にある「卑弥呼」も「邪馬台国」も、実は創作…物語だったのかもしれません。
または、実在していたけど、”東夷”が「皇帝がいる中心国から見て”東の異民族”の総称」ということを考えると、現代人がイメージしている「卑弥呼」と「邪馬台国」とは別のもかもしれませんね。”かも”ね、”かも”。
はい、ということで、何も謎の解決にもならない蘊蓄でした(笑)
たった一つ、確実な収穫としては「”日巫女(ヒミコ)説”は消去で」ということだけでしょうか(笑)
この文字数にして収穫といえるものはこれだけで、なんかスミマセン(笑)
「軽く説明」って言ったのに、いつものようにディープになってしまった。
ここでこれ以上の謎解きをするのは面倒臭いので、気になる方は各々で調べてみてください(笑)
言うてもね、”歴史書や遺跡から何をどう紐解くか”は人それぞれ違うでしょうし、もちろんここに書いたことも”絶対”ではありません。
歴史は、色々調べてみて自分なりにアレコレ想像するのが楽しいし、それがご正味だと思います。
この纏向遺跡辻地区大型建物群跡には誰がいたのか、箸墓古墳の主は誰なのか、についての謎は解決には至りませんでしたが、建物や古墳の規模からして、とにかく当時この辺り一帯に強大な権力が集まっていたのは確か。
それが、三輪山一帯に広がる大和朝廷(大和王権)なのであった。(バーン!)
ふぅ。
纏向遺跡のメイン、マル済み。
大丈夫です、きちんとドルチェをご用意してあります、お客様。
次回、ドルチェを投稿して纏向遺跡完遂です!
その次は、石上神宮へ凸〜!
人気ブログランキング
ポチポチしていただけると喜びます
この記事へのコメントはありません。