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奈良の旅もこの日で終わり。
とても充実した3泊4日でした。
旅は、帰る日になるとちょっと寂しい気持ちになりますよね。
帰りのフライトの時間は遅めにしてあるので、空港へ行く前に2箇所に寄ることにしました。
一つ目は、前日に突然豪風雨に晒されてビッシャビシャになって(笑)、敢えなく予定をキャンセルした神武天皇陵です。
どーーーしても行きたかった神武天皇陵へは、近鉄橿原線に乗り「畝傍御陵前」駅で下車。
前日の悪天候をまだ少し引きずっている小雨の中を、畝傍山方面に歩くこと約10分。
途中、大きなカタツムリが道路を横断していました。(エスカルゴよりは小さい)
轢かれないように気をつけてねヽ(´o`;)
さあ着きました!
木々が多い茂っていて、周囲とは一際違う雰囲気を醸し出しています。
石柱の「神武天皇御陵」の文字に、やっと来たかぁ!と少しテンション上昇。
『神武天皇 畝傍山東北陵(じんむてんのう うねびやまのうしとらのみささぎ)』
所在地 奈良県橿原市大久保町
天皇名 神武天皇
代 数 第1代
御陵名 畝傍山東北陵
陵 形 円丘
神武天皇陵の正式名称は上記の通り、神武天皇 畝傍山東北陵。
「東北」と書いて「うしとら(艮)」と読みます。
方位学において艮はいわゆる鬼門で、「東北」は橿原神宮の東北に位置していることに由来していると思われますが、橿原神宮を守護するために意図して神武天皇陵がここに造られたのか、たまたま橿原神宮から見て東北に造られたから御陵名に「東北(うしとら)」と付けたのかは定かではありません。
また、神武天皇陵にはミサンザイ古墳という別名もあります。
「ミサンザイ」というのは貴人の墓を意味するそうで、「みささぎ(陵)」が転訛したもの、とされています。
御陵の前の小川。
前日からの雨で水が濁っていますね。
流れも少し早かったです。
普段は澄んだ川なんだろうか?
案内板には、
神武天皇 畝傍山東北陵
一、みだりに域内に立ち入らぬこと
一、魚鳥等を取らぬこと
一、竹木等を切らぬこと
と書かれています。
先ほどの小川にはお魚が住んでいるんですね。
両脇を背の高い木々に挟まれた参道は、この日の天気もあってかとても幻想的でした。
霧がかってて先が白っぽくモヤに包まれて…
「…あれ?この道さっきも通っ…??」
って現象が起こりそうな気配(笑)
ちょっと空想の世界に紛れ込んだ気持ち。
小雨と、平日の午前中ということもあってか、誰もいない参道に玉砂利の良い音が鳴り響きます。
遠ーーーくに鳥居のようなものが見えてきました。
この小川は御陵の入口にあったのと同じ小川です。
やっと御陵の拝所に到着。
領域は、東西500m、南北約400mという広さ。
更に正面の奥には幅16mの周濠があるようです。
遠すぎて見えないけど。
拝所の左手に手水があります。
蓋がされていて、この時は使用できない状態になっていました。
石に窪みを作った手水、昔ながらで良いですね♪
墳丘の周りを、ほぼ正方形にぐるりと幅16mの周濠が囲んでいるようなんですが、拝所からは確認することができません。
白っぽい格子状の柵と、奥の鳥居の形の扉の間に、その周濠が巡っているようです。(見たい!でも見れないこのジレンマ!)
更に拡大して撮ってみました。
かなり年季の入った鳥居的扉ですね。
その向こうが気になるわぁ…ウズウズ…
御陵を守るように、とてつもなく広いエリアに数多くの木がこんもりと生え揃っています。
実は、”神武天皇陵はここじゃない説”もあるんですよ。
知っていましたか!?
神武天皇陵がこの場所であると定められたのは、江戸時代中期の元禄。(結構最近やん)
この場所(神武田)以外に神武天皇の御陵では?という説が出たのは、現在の御陵から更に東北にある福塚(塚山)という小さな円墳でした。(現在は第2代・綏靖天皇稜となっている)
この他に有力とされていたのが、畝傍山と現在の神武天皇陵の中間にあった旧洞村(ほらむら)の丸山宮趾。
洞村の村民は自らを「神武陵の守戸」と伝えており、その村の上部にあった丸山宮趾が本当の神武天皇陵だと当時は噂されていたそうな…
その後の文久3(1863)年に、特に証拠があったりしたわけじゃないけど、江戸幕府は現在の御陵を神武天皇陵である、と決めました。(結構テキトーだな!笑)
そうと決まればちょっとソレっぽくしましょう、ということで、他の御陵も合わせて100以上ある御陵の整備をします。
現在のように立派になったのは明治時代だそうで、そうなると明治史におけるアレやコレやと関連してくるのかなぁ?とか考えてしまいます。
一方、洞村は、大正6(1916)年に、「上から天皇陵を見下ろすとは何事だ!けしからん!」ということで、208戸が強制的に集団移転させられたそうです。
その際、補償費用も出ていたようですが、ちょっとモヤりますねぇ。
その洞村の上部にある丸山宮趾には、「宮」という文字が彫られた石柱が6本、何かを取り囲むように今でも残されていて、共同井戸のようなものもあり、確かにそこで”何か”を守り、人々が暮らしていたのがわかります。
「宮」は天皇にまつわる地域や建物に使われる漢字です。…ということは…う〜ん…
かくして、移転させられた洞村の村民たちは現在の橿原市大久保町に移り住むことになります。
被差別部落(いつからだろう?)だったらしく、他の村では受け入れ拒否をされ、現・大久保町に落ち着いたようです。
ああ、話が逸れて逸れて逸れきって繊細なネタになってしまいました…
興味のある方はネット検索で情報が取れるので、そちらで是非。
また、橿原市大久保町に「おおくぼまちづくり館」という地域の資料館があるので、近郊の方は訪れてみてください。
当時の歴史を知ることができます。
話を戻して、拝所向かって右の方に何か建物があったので、気になって行ってみました。
立派な平屋の一軒家のような佇まい。
茶屋かね?
違った。ここは畝傍陵墓監区事務所でした。
でね!
知らなかったんですが、「御陵印」というのがあるんですね!
神社の御朱印のように、御陵それぞれの御朱印があったのでした。
たまたまこの辺をブラつきながら、神武天皇陵について調べてて知りました(笑)
危ない、危ない、そのまま帰るとこだったわ!
後で知ったりしたら、ちょっと損した気分になるところだったわ!
御陵印はこの畝傍陵墓監区事務所でいただけるそうなので、「失礼します(カラカラ…)」と突撃して、中の方に「御陵印をいただきたいのですが…」とお尋ねしたところ、「あ、そこに置いてあるので、ご自由にどうぞ」と。
セルフ!(笑)
ちょっと緊張しながら捺印。
左から縦に、「神武天皇 畝傍山東北陵」と文字が彫られています。
御陵印は重厚な木箱のケースにセットで入っていて、神武天皇陵では30個のセット。
御陵印じたいは、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鵜葺草葺不合尊と歴代天皇(初代・神武天皇から第124代・昭和天皇まで)がありますが、皇極&斉明天皇など一人二役の天皇は一つの御陵印になっていて、合計で96個の御陵印となります。
御陵印をいただける場所はこの神武天皇陵を含む、応神天皇陵(大阪)、後堀河天皇(京都)、明治天皇陵(京都)、昭和天皇陵(東京)の計5箇所。
御朱印帳のように「御陵印帳」というのもあるので、御朱印と分けたい方は御陵印帳を利用するといいと思います。
全部の御陵を回れないので、その場にありったけの御陵印を全て捺すことも可能でしたが、行ってもない御陵の印を捺すのはなんとなく図々しいかな?と思ったので神武天皇陵のみにしました。
そろそろ次の場所へ行かなくては。
参道を戻ります。
元の入り口のところへ戻ってきました。
この真ん中の広場に来た時に、燕がずーっと私の周りをそこそこ至近距離でグルグル回ってることに気付きました。
気付いてからも「この私に何か用事カシラ?」とその場に突っ立って燕を眺めてましたが、それでも暫くずーっとずーっとグルグルとするのみで、ひとしきりグルグルするのに疲れたのか、そのうち遠くへ飛んで行きました。
後で調べたら、燕は巣を作ろうとする場所の周りをグルグル回る習性(イケるかどうかの吟味)があるみたい。
え!?もしかして私に巣をかけようとしてたんか!?(笑)
少し腑に落ちない気持ちで、神武天皇陵を後にしました…
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