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さて、橿原神宮を堪能したあとは、その境内の背後にある畝傍山を登りに行きました。
(橿原神宮本編はこちら↓)
畝傍山の登山口は、この美しい北参道の途中にあります。
畝傍山は標高199.2mなので、チョロっと行ってサッと帰って来れそうな山です。
もちろん、山なので靴はスニーカー、必要なら虫除けなどがあると良いです。
私が行った時(7月)は結構小さな虫が飛び交ってたし、何度も「プーーーン」という音に襲われてちょっと嫌になりました(笑)
登山口は道標があるので迷いません。
私はこの看板の紺色の点線のルートを登り、帰りは紺色の点線を戻り、途中で赤い点線に反れて畝火山口神社へ寄ることにしました。
畝傍山については後ほど書きますが、まずはこちらから。
畝傍山登山口に入ってすぐに現れる、東大谷日女命神社(ひがしおおたにひめみことじんじゃ)について。
『東大谷日女命神社(ひがしおおたにひめみことじんじゃ)』
所在地 奈良県橿原市畝傍町字唐院69
御祭神 媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)
社格 式内社
例祭日 10月8日
鳥居 明神鳥居
社殿様式
由緒については、詳しい記載を見つけられませんでした。
創建は定かではありませんが、江戸時代までは熊野権現と称され、伊弉冉尊をお祀りていたようです。
それがなぜ現在の東大谷日女命神社という名称になったのでしょうか。
簡単な経緯を先に記すと、明治20年(1887年)頃にこの神社は「延喜式神名帳」にある東大谷日女命神社の後裔であるとされ、御祭神が伊弉冉尊から神功皇后になります。
そして、明治35年(1902年)、社名を東大谷日女命神社に変更し、御祭神も現在の姫蹈鞴五十鈴姫命と変えられました。
この時点でちょっと複雑な事情がありげな雰囲気を醸し出していますが…
ええ、もう少し掘り下げましょう。掘り下げましょうとも。
まず、この東大谷日女命神社という名の神社、実はもう一社ありました。
同じく奈良県内の桜井市山田に鎮座しています。こちらの神社の御祭神は稚日女尊。(わかるひめのみこと。天照大御神の子、または妹)
不思議なのが、同じ名前の神社のどちらも、その社名にもある東大谷日女命が御祭神だった形跡もなければ、記紀にもその名は出てこないのです。
東大谷日女命とは一体どんな姫様なのでしょう?
この便利な時代にいくらネットで検索をかけても、正体のカケラも見つけられませんでした。(潔く諦め)
ただ、この社名にはまだ情報が詰まっていました。
後で寄る畝火山口神社は、元は畝傍山の山頂に鎮座していたのですが(現在は山頂に「畝火山口神社旧御鎮座地」として跡地が残されています)、昭和15年(1940年)の”紀元2600年祭”で、橿原神宮や神武天皇を見下すのはよろしくないということで、日本政府の命で現在の地に遷座されます。
その遷座された場所の地名は、「橿原市大谷町」。
そう、「大谷」という名前がここで出てきます。
つまり、地名から考えるに、畝傍山を挟んで東大谷日女命神社の反対側にある畝火山口神社が、実は東大谷日女命神社で、現在の東大谷日女命神社が畝傍山山頂から遷座された畝火山口神社ではないか?
と、そんな説があるようです。
「私たち、入れ替わってる!?」的な。(このネタわかる人いるかな)
現在、東大谷日女命神社がある地名は「畝傍町字唐院」なので、地名から見ても現在の場所に東大谷日女命神社という名の神社があるのはどうもしっくりきません。
また「東」という文字は日出る国の「ヤマト」を意味することもあり、必ずしも畝傍山の東にあること表すものとは言い切れないようです。
次の畝火山口神社の記事でまた少し触れたいと思いますが、畝火山口神社は元から畝傍山山頂にあったのではなく、室町時代、文安3年(1446年)の『五郡神社記』に「畝傍山口神社、在久米郷畝火山西山尾」とあります。
約130年後の天正年間の地図には畝傍山山頂に記されており、この約130年の間のどこかで山頂に移動したことが読み取れます。
となると、畝火山口神社は畝傍山の西の山麓から頂上へ持って行かれ、その後山麓へ降ろされた際に、東大谷日女命神社と取り違えられた可能性も考えられます。
またはその後の文献や伝承で入れ替わったか…
現在はこれ以上の詳しい記録がないため、想像の域を超えず、真相が気になるところです。
次に書く畝火山口神社の記事で、新たな発見があれば書きたいなぁ〜と思います(^-^)
東大谷日女命神社の拝殿は変わった造りで、本殿は格子の間から覗く感じです(笑)
向こうには小さなお社があり、その右側に更に小さなお社がありました。
なかなか年季が入った狛犬さんもいて、歴史の深さを感じさせられます。
では真相が気になる東大谷日女命神社を後にし、山頂へと進みます。
そして耳元でプーーーーーンという虫の音と、案外急な坂とかにハアハアしながら登ることに夢中で全然写真を撮ってなかった私。
それどころか、199.2mだから散歩レベルで楽勝だぜぃ!と本編の記事でも書いて、この記事の冒頭でもチョロっと行ってサッと帰って来れそうとか書いたけど、そんなことなかった。
案外しんどかった。
なのに年輩の方がスイスイ登ってくんですよ…私を追い越して(笑)
20分ぐらいで登れると聞いてたけど、もうちょっとかかった気がするんですけど…
おかしいな、体力には自信がある方なのになー。とか考えてたら山頂に到着!
汗だく。
夏だし。
畝傍山は、耳成山、香久山(天香久山、香具山)、からなる大和三山の一つ。
天智天皇(中大兄皇子)が詠んだ有名な歌が残されています。
「香久山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争いひき神代より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬を争ふらしき」
簡単に訳すと、
「香久山は畝傍を愛しいと耳成と争った。神代からこうであるらしい。昔からそうだから今も妻(ええ女)を取り合って争うらしい」
これは、神代の大和三山の神が恋争いとした、という歌です。
天智天皇がいた飛鳥時代から、この3つの山は特別なものとされていたのが伺えます。
というのも、天智天皇の2代後の第40代・天武天皇の代に造営に着手された藤原京は、この3つの山に囲まれるようにその真ん中に位置していて、南には朱雀大路があり、風水の「四神相応(しじんそうおう)」を用いて造られた都であることがわかるからです。
風水は西暦602年頃に伝来していて、平安京など都を作る際に「四神相応」が用いられてきました。
四神とは、
東=青龍(せいりゅう)、西=白虎(びゃっこ)、南=朱雀(すざく)、北=玄武(げんぶ)
といった東西南北をそれぞれ守る聖獣のことです。
「四神相応」は、風水における好適地の条件のことで、背後(北)に高い山、前方(南)には海・河川などの水、左右(東西)に丘陵や低い山に囲まれた形状をいいます。
このような土地に住むと一族は長く繁栄する、とされています。(が、藤原京は16年間と短かった)
因みに平安京(京都)では、東(青龍)→八坂神社、西(白虎)→松尾大社、南(朱雀)→城南宮、北(玄武)=上賀茂神社(賀茂別雷神社)を四神と定めていました。
その中心を司る平安神宮を加えて「京都の五社」とも呼ばれています。
藤原京については、この奈良の旅の最終日に藤原京跡に訪れてるので、その記事でまた詳しく書きたいと思います。
さて、畝傍山山頂には、上記した畝火山口神社の跡地があり(また写真撮るの忘れた〜!)、その跡地の横に石柱と木枠で囲われた禁足地がありました。
恐らくですが、この禁足地の中にある木は旧畝火山口神社の御神木だったのかも?
それほど太くない木ですが、畝傍山山麓へ遷座されたのは昭和15年(1940年)なので、移動する前に植えたのかもしれませんね。
畝傍山の山頂からの眺めはなかなか良い……はずなんですが、雲が多くてスカッと爽やかな景色とはなりませんでした(^-^;)
でも、畝傍山の東北(藤原京から見て真北)に位置する耳成山はバッチリ望むことができました。
綺麗な形の山ですね♪
香久山は…見える場所があったのかもしれませんが、写真がない…(笑)
下の写真は藤原京跡がある方角。
山並みの手前にある緑がある部分が藤原京があった場所。(多分)
西の方角には、金剛・葛城連山が一望できます。
この山々も古来から神聖とされていて、この辺りに南北に走る葛城古道も人気の散策路だそうです。(こっちも見どころが多そう!)
今回はそこまで行く余裕がないので行きませんでした。
あ、大和三山の他の2つ、耳成山(139.7m)、香久山(152.4m)も登ることができるので、登山がお好きな方は大和三山制覇を是非(=´∀`)
では下山して、畝火山口神社へ向かいまーす!
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