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九州滞在3日目、この日のラストを飾るのは宮地嶽神社。
日没に現れる「光の道」を見たくてここへ来たけど、完璧な「光の道」は年に2度ほどしか見れないものだそうです。
天気さえ良ければいつでも見れるものだと思っていて、何となく旅程を決めて何となくこの日がいいかなと来てみたら、ちょうど「光の道」が現れる時期で、想像を絶するほどの神々しい景色に出会えました。
その景色を皆さんにも是非お裾分けしたいと思います。(後編で)
まずは宮地嶽神社の基本情報をば。
『宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)』
所在地 福岡県福津市宮司元町7-1
御祭神 息長足比売命(おきながたらしひめのみこと) 別名:神功皇后(じんぐうこうごう)
勝村大神(かつむらのおおかみ)
勝頼大神(かつよりのおおかみ)
社格 県社・別表神社
例祭日 9月21〜23日
鳥居 明神鳥居
社殿様式 流造
【由緒】
息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)様
別名「神功皇后=じんぐうこうごう」様は第14代仲哀天皇様のお后様で、応神天皇様の母君にあたられます。
古事記、日本書紀等では渡韓の折、この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨み天神地祇(てんしんちぎ)を祭壇に祀り「天命を奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運を垂れ給え」と祈願の上船出されたとあります。
その後、神功皇后様のご功績を讃え主祭神として奉斎。
随従に阿曇族の長を併せ、「宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)」様としてお祀りしました。
以来、宮地嶽三柱大神様のご加護のもとで事に当たれば、どのような願い事も叶わせて戴ける「何事にも打ち勝つ開運の神様」として多くの方々に信仰されるようになりました。(宮地嶽神社HPより)
太宰府天満宮、筥崎宮、宗像大社と移動してきて、なんとか陽が沈む前の16時ごろに到着。
日没まで約1時間半。
宮地嶽神社の鳥居は、全部で8基。
この参道が西の海岸までずーっと続いていて、その海岸(宮地浜)に一の鳥居があります。(今回はそこまで行ってる余裕がなかったので二の鳥居から)
陽の傾きが私を焦らせる(笑)
焦ると重要なポイントを見逃すんですよね〜。気をつけなきゃ。
神社には馬の銅像があるところが多いですが、元来、神様は馬に騎乗して現れるとされていたことに由来します。
崇神天皇の時代あたりから、神事の際に馬を献上する風習が始まり、それが今でも受け継がれています。
伊勢神宮や上賀茂神社(賀茂別雷神社)などでも神馬ちゃんがお勤めしていますね(*´ω`*)ウマカワイー
馬を献上できない人は紙や木や土で作った馬で代用し奉納する習慣が生まれ、奈良時代から板に馬の絵を描いたものが現れます。
これが絵馬の原型。
宮地嶽神社の参道は一の鳥居がある宮地浜まで一直線に伸びており、その長さなんと800m!
また、宮地浜からは、海を隔てた向こうに相島を望むことができ、その島影はこの階段の一番上からも眺められます。
9月の秋季大祭には、十二単を着た御神幸行列がこの参道を牛車で往復し、平安時代にタイムスリップしたような風景となるようです。(見たい!)
宮地嶽神社の創建は神功皇后が三韓征伐から戻った後とされているので、約1700年前ごろになります。
参道の途中にある小さな日本庭園。
この階段はの坂は「男坂」と呼ばれています。
「男」ということは「女」もあるわけで、「女坂」はこの参道の北側にあって、主に車両や牛車が通る参道として使われています。
参道の遥か向こうに見える黒い島影が相島。
「男坂」を上ると、六の鳥居の足の間から奈良の畝傍山のような山が出現。
この山は宮地山という名前です。
いや、畝傍山の方がコンパクトか?
実際どうなんだろ?と思って調べたら、宮地山は標高181m、畝傍山は標高199m!
畝傍山の方が18m大きかった!宮地山惜しかった〜。
狛犬さん2対目。
どっしりしてるなぁ。
楼門が現れました。
鳥居は全部で8基でしたね。
手水舎がちょっと変わっていて、こんな感じに!
ガラスを水が伝っていて涼しげ。(10月初旬だけど、この日の福岡はまあまあ暑かった!)
昨今の神社では参拝者を楽しませるため、手水舎に花を飾ったり色々装飾をして工夫を凝らしてくれていますね。
その手水の写真を撮るために神社に来る方も多くて、文化や古来の風習に触れる機会が減っていってる今、写真を撮るためであっても神社に来ることによって、歴史に興味を持ったり自分が生まれ育った国に愛着を抱いたりするきっかけ作りに一役買っていると感じています。
私もこうして神社の記事を書くことによって、この国に生まれ育った誰かがこのブログを読んでくれて、この国の歴史や文化に興味を持ってくれたらいいな、とそんなふうに思っています。
うぶすな石は安産祈願の石。
赤ちゃんが無事に産まれるように願いを込めてこの石を持ち帰り、無事に生まれたらここにお返しします。
つまり、ここにある石たちは、幾重のも出産を見守ってきた石たちということ。
当ブログはスピリチュアルに特化しないブログですが、何代ものお母さんたちの願い・祈りがこもった石には何か特別なものが生じてる気がしてなりません。
科学的にいうと量子力学で説明されるエネルギー。その世界ではあり得ると思う。
3対目の狛犬さんはすごく堂々としていて格好良い。
あと強そう!
立派な楼門の向こうに拝殿の注連縄がチラ見えしてますね。
バーン!
宮地嶽神社の拝殿に到着!
翼を広げたような造りですね。
宮地嶽神社の本殿は流造なんですが、拝殿はその流造を変形させた日吉造のように見えますね。
日吉造は滋賀県の日吉大社に代表される建築様式で、平安初期に誰かが編み出したやつ。
日吉大社の創建は2100年ほど前とされてるので、平安以前は別の建築様式だったんでしょうかね?
宮地嶽神社の創建は約1700年ほど前で、平安時代より400〜500年前になるので、宮地嶽神社の拝殿も平安期以降に再建されたのかなと推測されます。(違ったらごめん)
拝殿の扁額だけちょっと失礼して…
あ、ガラスに注連縄が写っていますが、宮地嶽神社の注連縄は直径2.6m、長さ11m、重さ3トンという規模。
コレ頭に落っこちてきたら即死だな、というサイズです。
拝殿の両翼にあるのは、宮地嶽神社の御祭神の勝村大神(かつむらのおおかみ)と勝頼大神(かつよりのおおかみ)。
どっちがどっちなのか確認するのを忘れてしまった(汗)
由緒では、主祭神は神功皇后(息長足比売命)で、勝村大神と勝頼大神は神功皇后が三韓征伐に行った折にお供した二人も一緒に祀った……ということになっていますが、『筑前國續風土記拾遺』や古い書物によると、当初、宮地嶽神社に祀られていたのは、神功皇后ではなく阿部相凾(宮地嶽大明神)という人物と、藤高麿(勝村大神)と藤助麿(勝頼大神)となっているそうです。
お供の二人はそのまま同一人物でしょうが、阿部相凾とは一体誰なんでしょうか?
由緒では”三韓征伐で功を立てた阿曇(安曇)氏の長を併せ”とあるので、藤高麿(勝村大神)と藤助麿(勝頼大神)は安曇族と推測されます。
『筑前国風土記』においては、神功皇后と三韓征伐に出向いたのは、阿曇大浜・阿曇小浜と記されており、それぞれ藤高麿、藤助麿と同一人物の可能性が高いです。ちなみに阿曇大浜が兄で、阿曇小浜が弟だそう。
安曇族といえば、「105. 太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう) 其の弍 〜福岡県太宰府市〜」で考察した志賀神社の御祭神綿津見三柱神を祖先神に持つ一族ですが、海人集団を代表する氏でもあります。
神功皇后が三韓征伐のために、船の操縦に長けた海人を連れていくのは何ら違和感はありませんが、ならばいったい阿部相凾は誰?
そしてなぜ後に神功皇后に置き換えられたのでしょうか?
阿部相凾についてちょっと調べてみましたが、詳しいことはわからなかったです。
阿部氏の始祖は、欠史八代の一人、第8代孝元天皇の第一皇子阿部大彦命であると伝えられていますが、それを立証する資料等は存在しないため確証はありません。
この辺を深掘りするには時間がかかるため、どこかのどなたかにお任せします(´∀`)
宮地嶽神社には、本殿の背後に奥之宮八社と称されるお社があります。
日没までになんとか巡る時間がありそうなので、この後、そちらへ向かいます。
その前に御朱印をいただいておこう。
と、授与所の前に檻が!?
何かいる!
なんとフクロウさんでした!
大きなフクロウが2羽いるー!キャッキャ♪(動物好き)
「道に迷った正直者がモマ(フクロウ)の鳴き声について行くと、金の玉(=福)を授かった」という、宮地嶽神社に古くからある伝承から、宮地嶽神社の眷属はフクロウとされています。
語源はわからなかったのですが、この地ではフクロウのことを「モマ」と呼ぶそう。
目が黄色の女の子モーちゃんと、目がオレンジの男の子マーくん。
恐らくミミズクですね♪
頭カキカキしたかったけど、あまり触ったらこの子たちのストレスになっちゃうので、静かに見るだけにしておきました。ニヤけながら。
さて、では奥之宮八社へ向かいましょうかね〜っと。
日没に間に合うように戻ってくるぜぃ!
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