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前回からの続きです!
(前回の記事はこちら↓)
大神神社の授与所で神職さんと長々とダベって「日向神社へ行きたまえ!」と見送られた私。
拝殿を正面にして三輪山の右側から摂社と末社を回ります。
ここからは絶対に地図必須ですよ!
さもなくば迷子になります(笑)
授与所でこちら↑の地図付きの栞をいただけるので、全部回ろう!という意気込みのある方は特にいただいておいてください。
またこの地図は簡略化されていて道なき道もあったりするので、スマホでGoogleマップとの併用じゃないと苦労するかもです。
方向音痴でもなく全く道に迷わないタイプの私でも、左側の山裾は磁場が狂いちょっと迷子になりました(笑)
頼みの綱のGoogleマップもその一帯ではGPSが不正確で、野生の直感で退避して免れましたが危なく魔界へ迷い込んでしまうところでした(笑)
そして、こうイラストの地図で見ると神社と神社の距離が近く思えますが…これがまたトラップで…(笑)
何はともあれ、まずは一番近い神宝神社へ。
神宝神社は右の鳥居を抜けてすぐのところにあります。
熊野権現が勧請されている神社となっています。
熊野権現は熊野三山に祀られる神様の総称。
熊野三山とは熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)の三社の総称で、それぞれ個別の自然信仰を持つ神社でしたが、三社の主祭神を仲良くお互いに勧請しあい、その三柱をまとめて熊野権現と呼ばれるようになりました。
…にしても、晴れるよね〜(´∀`)
私が行くと嵐予報でも晴れる(たまたま)
伊勢神宮へ行った際は台風さえ跳ね除けた(たまたま)
この日も雨の予報でしたが、ほんと結構晴れます!
私は選ばれし者なのかもしれない。
知らんけど。
元旦の未明に行われる、大神神社の摂社・末社を巡る繞道祭(にょうどうさい)では、大神神社の三ツ鳥居を出て、最初にこの神宝神社で祭典をするそうです。
熊野三山の場所は和歌山県の南東部(紀伊半島の先端の東側一帯)で、「熊野古道(熊野参詣道)中辺路」によって互いに結ばれています。
熊野もいずれ行ってみたいところの一つです。
和歌山もまだ行ったことがないんだよなぁ。
初日に空港から和歌山に持ってかれそうになったけどね(笑)
どんどん進まねば日が暮れるな。
次に参ったのは天皇社。
こちらは第10代・崇神天皇をお祭りする神社です。
崇神天皇は、初めて天照大御神を皇居から外へ出し、神社にお祀りした方です。
大神神社摂社末社巡りのゴールの桧原神社を記事にする際にまた詳しく書くつもりですが、崇神天皇は即位5年に疫病が流行った際、それを鎮めるために天照大御神を宮中から外に出すことにしました。
崇神天皇は皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託し、豊鍬入姫命は天照大御神を大和の笠縫邑(現在の桧原神社)にお祀りします。
その後、第11代・垂仁天皇が第四皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)に「天照大御神をお祀りする場所だけどさ、なんかもうちょっと良い場所ないの?」と引越し先探しを依頼し、倭姫命が御杖代(みつえしろ=神や天皇の杖代わりとなって奉仕する者)となり、笠縫邑を天照大御神と出発し放浪の旅に出ます。
そしてある時、倭姫命は天照大御神の御信託を受け「ココやな!」となり、現在の伊勢神宮がある地に辿り着きました。
このような経緯があり桧原神社は通称「元伊勢」とも呼ばれ、現在でも天照大御神がお祀りされています。
豊鍬入姫命は巫女で、倭姫命も同様ではありますが、伊勢の地で天照大御神をお祀りする最初の巫女となったことが「斎宮(斎王)」という制度化へと繋がっていきます。(古い歴史ゆえ、この2人が実在したか否かが議論になることがあります)
斎宮(斎王)は未婚の皇族女性であらねばならず、お役目を終えるまで故郷にも帰ることはなかったそうです。
660年以上にわたり続けられた斎王制度は今はありませんが、現在は、今上陛下の妹君であられる黒田清子様が伊勢神宮の祭主(伊勢神宮にのみ置かれている神職の役職。天皇陛下の代わりとしてお勤めする)として御奉仕されています。
あ、また話が逸れっぱなし。
桧原神社の記事を書く前にそこそこ詳しく書いちゃったわ。
もう他に書くことないかも。
因みに、崇神天皇は”神社”の制度を整えられた方でもありますよ、と。
階段を登り切ったところに現れたのが天皇社。
なんか変なアングルで撮ってました。
階段で息が上がっててフレームがズレたっぽいです(笑)
お社の右手の方にスペースがありました。
これは恐らく祭祀用ですね。
さっき登った階段を降りまして、天皇社の次に向かったのはこちらの稲荷社。
成願稲荷神社です。
神宮寺の一つで、尼寺でだった浄願寺の鎮守祠として鎌倉時代に創祀されたようです。
昔は神仏習合という形がとられていた時代もありました。
6世紀頃に日本に伝わったとされる仏教ですが、一般的には聖徳太子によって「ちょっと良いの見つけたんだけど」的な感じで伝来されたという認識でしょうか。
当初は、
「日本には太古から続く自然信仰である神道があるんだし、宗教とかよせよ!バカタレが!」
ということで揉めに揉めていましたが、
「まぁでも、お互いに仲良くやったらいいじゃない。和したらいいじゃない」
という機運も高まり、奈良時代には神社とお寺を同じ境内に置く神仏習合という形が盛んになりました。
ところが平安時代に入り、徐々に寺院群は政治に口を出すようになってきます。(最澄や空海が活躍したのはこの時代)
社会不安が増すに連れ、僧侶が武装する僧兵が武装集団と化し、対立宗派・寺院への攻撃や朝廷への強訴などの武力行使を行う集団(寺社勢力)となり、人々を脅かす存在となったこともありました。
そこから江戸時代までこの問題を抱え、明治時代に入った頃に明治天皇と明治政府内で「やっぱ神道と仏教は分けない?古の日本が紡いできた神道をしっかり守ってくべきじゃない?」ということになり、ここで神道と仏教は元のように分けられ現在に至ります。
そんな感じで、神仏習合が盛んだった奈良時代に、神社とお寺が同じ境内に建立されるのが大流行してた奈良では、今でもその名残が数多くあるわけです。
成願稲荷神社の御祭神は宇迦御魂神。
稲荷神社の総本宮は京都にある伏見稲荷大社で、主祭神は稲など食物を司る宇迦御魂神です。(「稲荷大明神」とかとも呼ばれる)
なので基本的に稲荷神社は宇迦御魂神がお祀りされていますが、この宇迦御魂神も神仏習合思想の影響を受けて、仏教の荼枳尼天と同一視されるようになります。
よって、お寺に稲荷神社が建立されていたりするわけです。
ここ大事→宇迦御魂神は古事記や日本書紀にもしっかり登場している、暦とした日本の神様です。
ちょっと可愛げのある狛狐さん達。
ちゃんと前掛けもして、油揚げももらっていました(*^ω^*)
なんだろう、フォルムがなんとなく可愛い…頭と体のバランスかなぁ…(笑)
お世話をしてる方もいて、大事にされてるのがよく伝わります♪
ここで、「日本の神様を祀ってるのになぜ狛犬じゃなくて狛狐なの?」という疑問が聞こえてきそうですが…
お答えしましょう。
その理由は、
食物に関する神様を、古くは「みつけがみ(御饌津神)」と呼んでいました。
そこに「三狐神」という漢字をあてたことにより、狐が宇迦御魂神の遣いとして昇進したから!
…というのが有力説。
また、狐は稲などの作物を荒らす野ネズミを襲うため、稲荷神社の護衛としてセコムするようになった(これ10年後とかに読んだらセコムってなに?って思うやつかな、いやもう既に死語かな、死語という言葉がもう死語かな)、という説もあります。
私としては後者の方がしっくりくるなぁ〜。
ここで摂社・末社は3社目。
果たして私は何社まわれるのでしょうか?
摂社・末社、全18社をコンプリートできるのでしょうか?
其の肆へ続く!
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