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江差町に到着して明る朝、旧檜山爾志郡役所で土方歳三 嘆きの松で港を見下ろしながら嘆いたりしてみて、次にやってきたのは旧中村家住宅。
こちらは国指定重要文化財です。
元々は近江商人である大橋宇兵衛という人が建てたもので、店舗兼住宅として使用されていました。
この人物は、江戸時代から日本海沿岸の漁家を相手に海産物の仲買商をしてたようです。いわゆる、ニシン御殿が建つほどニシン粕の売買でも賑わった、北前船の廻船問屋ですね。
大正4年(1915)に大橋家が江差町を離れる際に、同じ近江出身で当時番頭を務めていた中村米吉がこれを譲り受け、昭和46年(1971)に重要文化財に指定、昭和49年(1974)に中村家から江差町へこの建物が寄付されました。
ニシン漁で栄えていた頃の面影を残す建物ですね。
当時の江差の品揃えは、江戸や大阪と変わりない豊かさがあったんだそうです。
この町がどれほど繁栄していたのかが伺えますね。
旧中村家住宅がある通りは、その頃のままの風景が残されていて、過去にタイムスリップしたような気持ちになります。タイムスリップしたことないけど。
では中へ入ってみます。
暖簾をくぐって引き戸を開けると、威勢の良い問屋さんの「いらっしゃい!」が聞こえる…
ことはもちろんなく、普通に左に受付係の女性がいました。
簡単に建物の説明を受けて、中を見学させてもらいます。
旧中村家住宅は、主屋・文庫倉・下ノ倉・ハネダシの4棟からなり、主屋には二階があります。
主屋と文庫倉は明治20年に、下ノ倉は江戸時代末に建てられたそうなので、元は下ノ倉だけだったのかもですね?
ハネダシの建築年は分かりませんでしたが、下ノ倉を建てたと同時か、主屋&文庫倉を増築した際に加えたか…
旧中村家住宅の中は、当時の暮らしぶりがそのまま再現されています。
質問などは入口にいた女性に聞くと、詳しく色々教えてくれます。(つって勝手に色々見て回ってしまったのであまり質問しなかったなぁ…失敗した)
壁には当時の看板がそのまま掛けられていました。
「萬病感應丸」…これは万能薬かや?
調べてみたらやはりそのようで、動悸、息切れ、気つけ、下痢、消化不良、胃腸虚弱、ひきつけ、小児五疳に効く、作用のおだやかな動植物性和漢薬を主成分とした薬、つまり和漢薬製剤のようです…
…ていうか今も売られてた!
ロングランやのう。
弱った五臓六腑に活力を与え、血虚・気虚を改善する銀色の半月形丸剤、とあります。
正徳4年に「神農感應丸」として発売。(「神農」とは古代中国の伝承に登場する、人々に医療と農耕の術を教えた人。医薬と農業を司る神とされている)
その後「萬病感應丸」と改名され、現在でも多くの方に愛用されている伝統薬となっています。
隣の看板は「阿波○○○○ 商標登録 金駒○大販売店(?)」とありますが、商標登録が何なのか不明。
「金駒」って刺繍のことかな?とも思うけど…
金駒の左には「江刺特約販売店 大橋宇兵衛」とあり(昔は江差の「差」は「刺」だったんですね)、この旧中村家住宅の初代の持ち主大橋宇兵衛さんが阿波のこの商品の特約店としての認定をもらっていたのがわかります。
反対の右側に書かれている「阿波国三好郡池田町 中村安太郎」から、どんなものを仕入れていたのか探ってみました。
が、徳島で「中村安太郎」でヒットするものは見当たらず、「阿波国三好郡池田町」で調べると、江戸時代は葉タバコが特産品になってることがわかりました。
大橋宇兵衛さんの廻船問屋ではタバコも扱っていたことがわかっているので、もしこの看板が阿波タバコの特約店なのだとしたら、「金駒」というタバコの名称で商標登録してるとか??
ちなみに、池田町は2006年に5町村と合併し、現在は三次市となっています。
上の写真、手前の机の上に算盤があるのが分かりますか?
建物の内側から店先を撮ったものです。
算盤は番頭さん用ですね。
主屋は、さすが豪商の家だけあって造りが立派です。
囲炉裏の横にあるのは煙管セットですかね。
粋にプカプカやってみたいもんですなぁ(´∀`)
欄間に陽が差し込んでるのがとても綺麗でした。
まるでレースカーテンのようですよね。
二階に上がってみます。(階段が細くて勾配が結構急なので気を付けて上り下りしましょう)
飾り棚や屏風があり、夜はここでゆっくり過ごしていたのかなぁということが想像されます。
神棚もあります。
当時の人も、住吉大神などの海の神様をお祀りしてたのかなぁ?
後の記事でこの江差町に鎮座する、北海道最古と言われる神社の姥神大神宮をご紹介しますが、姥神大神宮の御祭神は天照皇大御神、天児屋根命、住吉大神なので、きっと姥神大神宮の神札がこの(当時の)神棚には入っていたんじゃないかなーと思います。
やっぱりフレーム構図ね。
一階に戻り、更に奥の方を見学。
家の中に井戸があるんですね。
ここにも古い看板が。
漢方薬の名前がいくつか書かれていますね。
金沢の上尾張(現在は多治見市)から、はるばる船に乗ってここまでやってきたんですね〜。
北前船は、4月初頭に大阪から出港して、途中、日本海の港で商いをしながら5〜6月頃に蝦夷地に到着(下り/西廻り)。蝦夷地で買い付けを終え7〜8月に出港し、初冬に大阪に戻る(上り/東廻り)、という長い長い旅を一年に一度します。
北前船の積荷は、下りが米、酒、塩、砂糖、紙、木綿など。薬やタバコもですね。
上りは昆布、鰊などの海産物や〆粕等。
利益は「千石船一航海の利益は千両」(下り荷三百両、上り荷七百両)といわれていて、よくわかんないけどかなり儲かってウハウハだった観。
今なら飛行機で数時間で物を運べますが、当時の人はこうして各地の物を運び、交流し、生計を立てていたんですね。
おや、何か秘密の部屋のようなエリアが…
どうやらここが文庫倉のようですね。
見るからに高価そうな骨董品のようなものが並んでいます。
それぞれの棟を”通り庭”という通路が結ぶ形になっていて、この先はハネダシへと抜ける形になっています。
ハネダシとは、砂浜に太い柱を立て、その上に二階が宅地から張り出すようにして建てられた部分をいいます。
高床式みたいな形。
下の写真で確認できるように、通り庭を下った先が直接外(海)へ出られる形になっていて、この先に停泊した船から最短距離で品物を建物の中へ運ぶことができるよう、仕事の効率を考えた建築仕様になっているのです。
ハネダシの外から写真を撮っていればよかったのですが、撮り損ねていました〜(*_*)
旧中村家住宅はこういった勾配のあるところに建てられていて、表の入り口が陸側にあり、ハネダシは坂の下の方に造られます。
写真ではハネダシがある坂の下方に道路が走っていますが、これは昭和40年代に国道新設のため埋め立て工事が行われ、周囲の嵩上げがなされたためで、当時はもちろんこんなアスファルトの道路はなく海でした。
下ノ倉には当時の幟、ニシン漁や昆布漁をしてる様子の写真など、様々な展示物がありました。
…って、下ノ倉の中はあまり写真をいませんでした…(笑)
一通り見て外へ出たら綺麗な桜が。
この場所から先ほどまで見学していた旧檜山爾志郡役所(江差町郷土資料館)が見えますね。
その下の古めかしい趣のある建物はなんだろう?
調べてみると、「旧役場本庁舎建物(江差町会所会館)」でした。
弘化2年(1845年)に町会所(町役所)として町民の拠金により建設されたものだそうです。
入ってみようと試みたんですが、閉館中で叶いませんでした(泣)
小屋組という珍しい建築手法が使われていて、歴史的価値が高い建物だそうです。(ますます見学したかったぜぃ!)
濃い目のピンクがとても可愛かった(*´ω`*)
なんなら広場のつくしも可愛かった(*´ω`*)
旧中村家住宅の前を走るいにしえ街道を東北の方角に道なりに向かえば、3施設共通入館券にある3つ目の施設、旧関川家別荘があります。
旧中村家住宅から車で2分ぐらい。
敷地が広くて、どこからどこまでがこの施設なのかちょっと困惑。
受付を見つけるも人影なし…
ちょっと彷徨ってみると掃き掃除をしてるおじさんを発見!
ていうか受付の方でした。
関川家は、江戸時代だった約300年前から明治30年代までの松前藩第一の豪商で、こちらも中村家と同様に江差の廻船問屋でした。
この別荘は江戸時代末か明治時代初めに建てられたもので、現在は江差町の有形文化財となっています。
母屋と倉から成り、倉では関川家に伝わった調度品が多く展示されています。
ではさっそく倉から見学。
え〜っと、ナニナニー?『関川の由来』?…
北海道に移り住んだ初代の関川さんは関川与左衛門さんで、天和の時代に越後国から蝦夷に渡り、最初は道南の(この後に行く)松前町の松前城下に移住してきて、その後、この江差で造酒屋を営みつつ定住。
正徳2年(1712)に与左衛門さんが没し、跡目を息子の恒道さんが相続。
恒道さんは”関川平四郎”を名乗り廻船問屋を主業としました、と。
そこから9代目与左衛門さんが明治30年に江差を離れるまでの約200年間、関川家は商権を幅広く持つ江差の豪商の第一人者となり、松前藩からの御用商人(”お抱え”やな)として、代々、苗字を持つことと帯刀を許された、とな。(これはなかなか凄いこと!)
関川家は廻船問屋の他に、元来の造酒屋、金融業までもこなし、多角経営をしていたようです。
多角経営は今でいうリスクヘッジでもある上、それぞれの事業がうまくいっていたので、関川家一族が繁栄したんですね。
更にこの関川家、ただセレブな人達というだけではなく、江差の発展にとてつもない功績を残していることは押さえておきたいところ。
・安政5年(1858) 江差弁天島(現在のかもめ島)の灯台の設置
・明治3年(1870) 江差弁天島に防波堤の設置
・明治8年(1875) 新聞を閲覧できる場所の設置
・江差小学校の建築
・公立病院の建築
・市街地街路改修への出資
・道議会開設の提言
以上は大きな事柄ですが、これだけ江差に貢献していた一族ならば、小さな功績もゴマンと残していることと思います。
関川家なくしては地方自治は充実しなかったでしょうね。
6代目与左衛門さんは「砂山(サザン)」、8代目平四郎さんは「一鼎(いってい)」または「蓼窓(りょうそう)」として俳人の顔もあり、別邸「蓼窓庵」(現在の母屋)を設けたのだそうです。
倉には日本の調度品もあるのですが、その中に一風変わったものがあるなぁと思ったら、洋ランプ。
オランダ製でしょうかね?
上部が綺麗な桃色。
「ギヤマン」とはガラス製の器や細工物のこと。
オランダ語で「ダイヤモンド」の意味ですが、ガラス製品をカットしたり飾り彫をする工具としてダイヤモンドが用いられていたことから、ガラス製品を「ギヤマン」と呼ぶようになりました。
写真ではわかりにくいのですが、このギヤマン皿の紺碧がとても綺麗でした。
そして思わず平伏しそうになったのが、こちらの一対の水瓶!(サイズはかなりでかい!)
十六菊花紋章が付いてる!
色味もとても美しくて目を引くのですが、十六菊花紋章があるということは、これは天皇から下賜されたものということです。
松前藩お抱えの廻船問屋さんが、天皇からこんな立派なものを下賜されるとはよっぽど。
それほどに関川家は社会貢献をしていたという証左でしょうね。
そんな話を、ガイドしにきてくれた先ほどの受付のおじさんとお話ししていました。(いつものダベリ)
こちらは螺鈿細工を絵巻風に装飾した鞍。
うまく撮れなくて、貝殻のキラキラ感が写真では出せませんでした(*_*)
いやー、こんな高価な感じだと気まずくて跨れないわぁ(笑)
陣笠には三つ柏の家紋。
火事装束にも三つ柏。
三つ柏が関川家の家紋なのでしょうかね。
たくさんの貴重な品々を見終えて、母屋に移動。
母屋は6畳間が4部屋あって(だったと思う)、当時の江差ではこんな家屋はそうそうなかったんじゃないでしょうかね。
十分に贅沢といえる間取りだと思います。
一つの部屋に、生花が凛と生けられていました。
なんだろう、この心を打つような画は…
なんとも言えぬ美しさを感じます…
…!!これが”侘び寂び”とかいう例の噂のアレか!?
派手にするんじゃなく、慎ましく、そっと数本の花を添える…とても日本らしい美しさを感じますね。
藍色に白抜きされた三つ柏がまた花を引き立てているように感じます。
こちらの部屋では、水仙の黄色が机とのコントラストを成していて、これまた素敵。とても良い色味。
受付のおじさんのセンスでしょうか!?好きになっちゃいそう!(笑)
ちょっと季節的にアレだったので(撮影時は4月末)、緑があまり茂っていませんが、見て欲しいのがこの庭です。
先ほど、関川家についての解説で、6代目与左衛門さんと8代目平四郎さんは俳人もやってたらしいよーと書いたのですが、この母屋を「蓼窓庵」と名付けた8代目平四郎さん(俳人名「蓼窓」)は、こんな大きな庭も拵えていました。
新緑や紅葉の時期は風情が出てウットリしちゃうんだろうなぁ。
この池の辺りで俳句を作っていたりしたのでしょうかねぇ。
くるくるしたシダの新芽がなんだか可愛い。
札幌に住んでいながらこんなことを言うのもナンですが、昔の人はよくこんな寒いところに移住してきたなぁと思います。
今でこそ、文明が発達して建築技術にも変化が起き、室内は暖房器具も備わっていて暖かいし、真冬に着るものも充実して食べ物も貯蔵でき、極寒で農作物が育たなくても飢えることもなく普通に暮らせていますが、昔の人達は道路の整備すらされていない極寒の地に渡って来て、よく「ここで暮らそう」という気持ちになれたなぁ〜なんて。
何かやらかして罰ゲームで「はい、おまえ蝦夷地!」とかやられてたんじゃないか?とさえ考えてしまいます。
中には仕方なく移住してきた方も多かったかもしれませんが、その方々のお陰で蝦夷地はこんなにも発展して、今では国内でも有数の歓楽街もあって、夜景も綺麗なスポットもあって、冬はウィンタースポーツを楽しんだり、雪を使ったイベントを催したり、夏は他の地域よりも涼しく過ごせて爽やかな束の間を味わえて…それもこれも「はい、おまえも来週から蝦夷地ね!」と言われたかもしれない先人達のおかげなんですよね。
何もないところに家を作り道路を作り水を引き、畑を耕し生活に便利なように工夫を凝らし、発展させてきた人達がいて…そう考えると自然と感謝の気持ちが溢れてくるんです。
「今」は「過去」の積み重ねで、その積み重ねたものを「歴史」と言いますが、自分は今その「歴史」の先端にいて、いずれ私の上にも新しいものが上に重なっていって、私も先人達と同じように過去の歴史の一つになるんだな…と思うとちょっと不思議な気持ちになります。
そのたくさんのモノが積み重なった歴史の中でも、こうして後世に名前を残し「今」と共生する存在(名所や著名な歴史的人物、文化)があるわけですが、自分がそれと同等に名を残したいとかの願望はないですが、その代わりにせめて、自らは物言わぬ「歴史」を「今」生きてる人に知ってもらう機会を作れたらいいな、とそういう気持ちで2014年から約9年の間このブログを綴ってきました。
いつまでこの日本が”日本”で在ることができるのかわかりませんが、私が生きてる間も死んだ後も、少しでも長く”日本”が在って欲しいと願うし、その日本が”日本”で在ることを証明するのは「歴史」しかないだろうと考えているのです。
文字を一つ一つ、子供(猫でもいいけど)を愛でるように大切に綴っているつもりではあって(結構ふざけてますが)、こんなモノでも誰かの記憶に少しでも残れたらいいな、そして、このブログをきっかけに自分が住んでいるこの国、故郷のことを少しでも知って更に興味を持ってもらえたらいいな、なんて日頃思っています。
みんな…今まで読んでくれてありがとう!
…みたいなブログ辞めますメッセージ的な流れになったけど、まだこれからも続ける所存ですよ!ええ、続けますとも。
いうてもこのブログは全て自己満足でしかないし、単なる蘊蓄を披露したいだけですが!(笑)
次回はやっと神社ネタに戻って、北海道最古と言われる姥神大神宮をご紹介します!
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