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道南1泊2日の弾丸旅行、江差町を堪能した後は更に南下して松前町へ。
松前町には北海道でも”城らしい城”がある、桜の名所となっています。
”城らしい城”と書いたのは、皆さんが一般に想像する城の形をしてるからですが、実は北海道には”城”と認められているのは城跡も含め5つしかありません。
まず、今回ご紹介する松前城、そして函館市にある五稜郭。
この二つは当時の姿を今でも見ることができます。(松前城の多くの部分は復元ですが)
五稜郭はどちらかと城としてのイメージを持たれないんですが、しっかり要塞の体をなしています。
築城は安政4年(西暦1857)。欧米列強から北方を守るため江戸幕府の命で、武田斐三郎が設計しました。
戊辰戦争では、開陽丸で蝦夷地へ渡ってきた旧幕府軍の土方歳三らがここを占拠し、新撰組の最期の地となりました。
五稜郭が星型になってるのは、その先端に大砲を置いたり見張を立てたりといった攻防強化と死角をなくすための設計で、実は十陵郭になる予定でした。
予算が足りず、結果的に五稜郭+一欠片という形で完成となります。
一欠片、そうあの星型のお股から一箇所だけ棘が出ています。あれが5つのお股全部に造られる予定でした。
十陵郭として完成していたのならこんなネタも生まれなかったし、☆型ってのがなんか可愛らしくていいなとも思えますよね。
開拓史のシンボルである赤い★型は、デザインの考案に関わった函館出身の蛭子末次郎(えびこすえじろう)という人が、五稜郭を参考にしたものだそうです。
そうです、十陵郭ではなく五稜郭だったからこそ、開拓史のシンボルが★型になり、今でも札幌市の史跡等で★型を見ることができるんです。
例えば、旧北海道庁(赤レンガ)、札幌時計台、清華亭、豊平館、そしてサッポロビール…
そして、明治4年に開拓使の黒田清隆によって奨励され建てられた、札幌祖霊神社にも!
札幌祖霊神社は社紋が★なんです♪
京都の安倍晴明をお祀りする晴明神社は同じ星型でも五芒星で、ちょっと違いますね(^-^)
あちらは、安倍晴明が創った陰陽道に用いられる祈祷呪符、魔封じの印。
そして、北海道にある残る3つの城または城跡は、16~18世紀ごろにアイヌの人々が造った城…というか砦の根室半島チャシ跡群、松前藩の藩主松前氏の始祖の武田信広が寛正3年(西暦1462)に築いた上之国勝山館、室町時代に陸奥の豪族の安東政季が造った志苔館(しのりだて)。
これらは全て城跡ですが、勝山館跡がある勝山館跡ガイダンス施設では出土品の展示や、CGでの復元映像も見られるそうです。
勝山館跡へは一度行ってみたいなぁ。
そんなこんなで 松前城に着きました!
いきなり満開の桜!

松前城本丸へ行くにはいくつかのルートがあって、私は天神坂から入りました。
駐車場はこの時期だと混み合うので、松前城から少し離れたところに止めましたよ。

細い坂道に覆いかぶさるような桜!

道に迫り出すように幹が伸びていて、それを支える木材が桜のトンネルような姿を呈していました。
桜の花の間から溢れる陽の光が素敵☆

門の向こうに城壁が見えてきました。

松前城は国内で最後に造られた城です。
初代松前藩主の松前慶広が慶長11年(西暦1606)に、松前城の前身となる福山館を建てました。
その後、嘉永2年(西暦1849)に江戸幕府の命によって、ロシア等外国船の警備のため、松前藩の第12代藩主の松前崇広が現在の姿の天守を築きます。
この時の設計者は、市川一学(いちかわ いちがく)という儒学者で兵学者です。

戊辰戦争の箱館戦争で、この城は土方歳三の新撰組率いる旧幕府軍に攻め落とされますが、その間、たったの数時間。
松前城の砲台は、外国船が海から攻め入ってくることを想定して造られたので、背後が手薄で、そこを狙われました。
まさに「抜かりあり!」ですな。

しかしその翌年、新政府軍に奪回されてしまいます。
束の間の夢の如し。
搦手ニノ門を抜けると、多聞櫓と本丸が視界に入ります。

松前城とや松前藩屋敷を含めたこの一帯の松前公園は、北海道で一番早く桜が咲く名所として有名です。
桜の期間の夜はライトアップもされているので、機会があったら是非。

見渡す限りの桜ですねー♪
松前公園には、約250種1万本の桜の木があって、早咲き、中咲き、遅咲きがあり約2ヶ月の間、桜を楽しめます。
松前公園は、「日本さくら名所100選」にも選ばれているんです。

この標本木に5輪の花が咲くと、「開花」となります。

多聞櫓(たもんやぐら)の隣が受付。
料金は、大人360円、小人(小・中学生)240円で、10名以上の団体割もあります。

松前城は明治維新後に大半が取り壊されましたが、天守は国宝に指定されました。
ところが、昭和24年(西暦1949)6月5日、もらい火によって消失してしまいます。(なんちゅーこっちゃ!)

築城当時からそのままの状態で現存しているものは、本丸御門(国指定重要文化財)、本丸表御殿玄関(北海道有形文化財)、旧寺町御門の3つのみとなってしまいました。
他の部分は復元されたものです。
城跡自体は国の文化財の史跡として指定されています。

満開の桜に見惚れてしまいますね…
毎年桜を見るたびに、日本に生まれた日本人としての特権を感じます(=´∀`)
私の遠い遠いご先祖様も、この国でこうして毎年桜に見惚れていたんだろうなぁ。

幹からも花びらがこぼれ落ちるように咲き乱れていました。

城と桜と海がセットなのって、なかなかないんじゃないでしょうか?

この海の向こうに青森があります。

昭和35年(西暦1960)に現在の天守が完成し、翌年に付帯施設が竣工した以降は、松前城資料館として天守の内部を活用されています。

本丸御門のある場所へ移動してきました。
先ほど天守の上から眺めていた場所ですね。

松前城は、本丸、二の丸、三の丸、楼櫓6、城門16、砲台7座が置かれていたのだそうです。

私としたことが、この天守の石垣に砲台の跡があるのに気が付かず、歴史の軌跡を撮影し損ねてしまいました(*_*)

やっぱり石垣は築城名人・加藤清正師匠の反りがあるのが好きだなぁ、なんて城素人ながら思ったりしたのでした。

とはいえ、松前城は儒学者で兵学者の市川一学さんが最初で最後の設計を行なった城のようなので、彼にとっては特別な思い入れのある記念すべき城だったのだろうなぁ…と思うと、「加藤清正の方ガー」とかは言えなくなりましたわ。

ん?
何かある。

あ、これが北海道有形文化財の本丸表御殿玄関ですね。

とても趣がある玄関。とはいえ、現在は玄関の部分だけでこの後ろには何もありません。
松前城の表御殿は、開拓史が入ってきた後は小学校として使われていましたが、明治33年(西暦1900)新校舎建築の際に撤去されます。
その際、この玄関部分だけは残され、新築された小学校の玄関として昭和57年(西暦1892)まで再利用されていました。
当時の状態のまま現在地に曳屋され、今でもこうして保存されています。

前述しましたが、松前城の前身となる福山館は慶長5年(西暦1600)に築城されています。
この本丸表御殿玄関はその時に造られたもので、嘉永2年(西暦1849)に市川一学の設計で城を新たに造り直した際に本丸表御殿玄関をそのまま再利用したため、唐破風の曲線や懸魚(げぎょ)、外部の松竹梅に鶴亀などといった桃山時代の特徴を残した作風を見ることができます。

地面に白っぽく見えるものは雛菊。
雛菊は可愛くて、どこどなく健気さがあって好き。

桜の薄桃と雛菊の色がマッチしていて、素敵な風景でした。

松前城の前身、福山館が築かれた時の城主(正確にはまだ”城”とは呼ばれていなかった)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての戦国大名の松前慶広。(初代松前藩主)
江戸末期に福山館を改築し、現在の日本式城郭となった時の城主は第12代藩主の松前崇広。
ん?
この看板の順序でいけば、17世の崇広は初代藩主の慶広から数えて13代目になるんだけど、一つずれてる…
何故?
6世から16世までの誰かがすっ飛ばされてる?
ちょっと探ってみると、初代藩主慶広の長男盛広(2世)が正式な世子とは認められていなかった模様…
慶長5年(西暦1600)に家督を継承し、翌年に従五位下・若狭守に叙位・任官すれども、政務は依然として父・慶広が執り行っていたようです。
慶長9年(西暦1604)に松前藩が成立した際にも慶広が藩主とされて、盛広の名は上がってなかったようです。
慶長13年(西暦1608年)に、盛広は父よりも先に他界。この時38歳。
そして盛広の長男である公広が慶広の世子となり、家督を継いだそう。
いやコレなんかゴチャゴチャしてんな。
幕府から許可が降りないって、盛広は幕府に対して何かやらかしたんか!?
松前氏の系譜から消えてないから、身内でモメたわけではなさそうな…
いずれにしても何かあったっぽい感じはありますなぁ。

そうそう、「松前城」という名称は本来のものではなく、前身の福山館から為る「福山城」というのが江戸時代の正式な名称でした。
1600年代初頭に築城された、広島県にある備後福山城との混同を避けるために、この松前郡福山に建てた城を「松前城」と呼ぶようになり、それが定着していきました。
現代では「松前城」の方が圧倒的に馴染みが深いですね。
逆に「北海道の福山城」と聞いてピンとくる道民は少ないかもしれん。

松前城をだいたい見終えて、次は松前公園内の別のところに移動。
そういえば、天守内部の”資料館”の様子を撮ってなかったなぁ…
興味のある方は、ぜひ見学に行ってみてくださいね。

本当に桜の木の数がとても多くて、いろんな種類を堪能することができます。

城の裏側へ回ってもまだまだ桜三昧!

この辺一体も城の跡地です。
松前城は3重3階と小規模な城ですが、敷地面積はそれなりに広かったことが伺えますね。

松前公園内をぶらぶらしていたら見つけちゃいました!

松前神社!
城の跡地に神社があることは予想していなかった!
創建は明治12年(西暦1879)で、松前氏の始祖武田信広が御祭神となっています。
次回はこの松前神社をご紹介します!
<追記>
あかーん!
松前城の御城印をいただいたのですが、掲載するのを忘れていました。
考えてみれば、以前行ったお城(京都の二条城、愛知の名古屋城、沖縄の首里城)も、それぞれ御城印をいただいておけばよかったなぁ…
ということで、私にとっての初御城印はこちらになりました!

松前氏は武田信広が祖です。
よって、松前氏の家紋も丸に武田菱が用いられています。
私が訪れた年は、ちょうど松前藩復領200年の年だったようで、特別に記念御城印がありました。
せっかくなのでそちらもいただいてきました。

松前藩復領弍百年記念
北前船が往き来していた時代、松前藩はアイヌの人々をこき使うことで多大な利益をあげていました。
その扱いは本当に酷いもので、見かねた幕府が寛政11年(西暦1799)、松前藩から一時、東蝦夷地の領地を召し上げます。
これにはロシアの南下に警戒た幕府が、松前藩に国防を任せていられないので幕府が直轄し、東蝦夷地の警護にあたるという意味も含まれていました。
当時の東蝦夷地とは、下の図の通りの領域を指します。(コトバンクより)
前述のことから、文化4年(西暦1807)には、幕府は蝦夷地全域を直轄、松前藩は福島県伊達市梁川に移封されます。
その後、文政4年(西暦1821)に復領が認められ、翌年の文政5年(西暦1822)に藩主が松前に戻ることになります。
その年から数えて、令和4年(西暦2022)が200年の節目となりました。
なかなか私も良いタイミングに訪れたものだなぁー。
御城印をいただくと、このような袋に入れてくれました。


桜のウサちゃんはシールなんですが、一つ一つにこうして手作業で貼ってくれてることを想像すると、袋すら大切にしたくなりますね(^-^)
因みに、この松前という土地が舞台にもなる司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』は、松前藩と北前船、蝦夷地を知るにはもってこいです。

松前藩についてはネガティブな歴史も描かれているものの、この地域や函館が興った経緯をよく把握できるので、興味がある方はぜひご一読を♪
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