
神社・仏閣ランキング
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(前回からの続き)
この九州の旅は、1泊目は宮崎県の高千穂、2泊目は長崎の佐世保、そして3、4泊目は福岡というプランで動いています。
高千穂で神話の地を堪能したあと、長崎へ行く途中に熊本県の熊本城と熊本城内の加藤神社、そして御輿来(おこしき)海岸に寄りました。
まずは熊本城から!
熊本城は3重6階(地下1階)、遠くからでもその天守閣がそびえ立つ様を見ることができます。
お城の中心となる場所に一番高く作られた櫓(見晴らし台、武器庫)を「天守閣」といいますが、「天守」が本来の呼び方だそうです。
「閣」というのは楼閣建築など、高級な仕様の建築物の呼び名に用いられるもので、「天守閣」と呼ばれるのが一般化したのは江戸時代以降。
現代の私たちからすると「天守閣」の方が聞き馴染みがありますが、「天守」が正式名称。
このお城の権威そのものとも言える「天守」が築かれるようになったのは、織田信長が築いた安土城からで、当時は「天主」と表されていました。
さすが、織田信長大先輩。
「天守」のパイオニアでもあるんですねぇ。

敷地が広すぎて、どの駐車場に車を停めたらいいのか不明でしたが、とりあえずテキトーに停めたここは二の丸駐車場。
ここから天守閣のあるところまで歩きますが、ま〜広いこと!

途中このようなパネル展示などもあり、2016年の熊本地震による被害の様子も知ることができます。

難攻不落の堅城と謳われた熊本城も、自然の脅威には打ち勝てませんでした。
人が造るものの限界かもしれませんね…

熊本地震から6年後のこの時、復興具合も気になっていました。
曲輪(くるわ)の石垣などは今も崩れたままの箇所があったりして、当時の悲惨な情景に感じ入りました。
主要な建物の石垣は既に修理が終わっていて、よくあのバラバラな石を積み直すことができたな〜と感服。
大変な時間と労力の賜物です。

西出丸・奉行丸ゾーンと平左衛門(へいざえもん)丸ゾーンを抜けた先が、天守閣ゾーン。

天守閣西側の「第三の天守」とも呼ばれる平左衛門丸の石垣は、まだ補修中なのか網がかけられていました。

天守閣まであともう少し!

着いた!
…けど、こちらは天守閣の背面なので、前へ回り込みます。

それにしても大きい!
名古屋城と同じぐらいあるかな?と思い調べましたら、お城の高さランキング2位が36.1mで名古屋城、熊本城は32.5mで4位でした。
ちなみに1位は41.5mで大阪城、3位が33.0mの長崎の島原城。
島原城をネットで見てみましたが、破風などがなくて日本式城郭とはまた別物のような佇まいが面白い。
お城の建築様式もいろいろあるのね。

熊本城の築城主は、築城名人と名高い加藤清正。出身は尾張(現在の愛知県西部)で、初代熊本藩主。
清正は戦乱で荒れ果てたこの肥後国(現在の熊本県)に、治山治水(ちさんちすい)工事や水田の開発に力を入れ、この地に大きな功績を残しました。
なんと現在でも利用されている設備もあるそうです。
また、積極的に領地経営をして豊かな国を作りました。
そうして肥後国の領民に慕われ続けた清正のため、慶応4年(明治元年)、当時の熊本藩主・細川韻邦公の弟である長岡護美公の建議によって、現在、天守閣の北側にある加藤神社が創建されるに至ります。
端の方に目をやると、こんな風に震災によってところどころ石垣が崩れている箇所もありました。

そんなこんなで天守閣に到着〜。

ささ、いざ参らん!
突撃じゃー!

お城の入り口の幕には、九曜紋(左)と蛇の目紋(右)が施されています。
この九曜紋は、二代にわたる加藤家が改易された後に、熊本城主となる細川氏の家紋。
そして蛇の目紋が加藤家の家紋ですが、加藤家にはもう1つ、桔梗紋の家紋があります。
桔梗紋の方は元は讃岐国(香川県)を改易された尾藤氏のものでしたが、清正が肥後国に入る際に、豊臣秀吉から贈られた調度品についていた紋をそのまま使用していたんだそうです。
一方、蛇の目紋は武具や旗印に使用し、2つの家紋を使い分けていました。
家紋にしても神社にしても、紋が2つあるのはそれほど珍しくありません。
余談ですが、桔梗紋といえば明智光秀の明智家の家紋を思い出します。
明智氏は源氏である土岐氏の支流とされていて、その土岐桔梗紋を明智家がそのまま受け継ぎました。
明智光秀はその桔梗に水色をつけ、水色桔梗紋として使用していました。
色付きの家紋は珍しく、光秀さんってオシャレさんだったのかな?と思わせられますね。
築城名人だった加藤清正は、実は井戸掘り名人でもありました。
長い籠城戦への備えとして、城内に120個もあるそうです!そのうち現存してるのは17個。
清正はなんか色々造るのが好きなんですね。結構のめり込むタイプなんかな。

天守閣の中は、各階層ごとに熊本城史料館のようになっています。

清正は刀鍛冶の家に生まれ、母親が豊臣秀吉のいとこであったことをきっかけに12歳から秀吉に仕えます。(「本能寺の変」も参加)
秀吉の子飼い家臣、”賤ケ岳の七本槍”のひとりとして合戦などでも活躍してきましたが、秀吉の死後は徳川家康にくっついて(表現が悪い)、有名な「関ヶ原の戦い」では、秀吉存命の頃から石田三成とは対立していたこともあり、東軍としてチーム三成と対戦します。

清正は1611年、京の二条城で家康と豊臣秀頼の「二条城会見」を取り持った帰りの船で病死。
家康が毒を持った説もありますが(やってそう)、突然の死で遺言も辞世の句も遺せませんでした。

加藤清正の築城で最も評価されてるのは、その”石垣”です。
特に熊本城の石垣は天下一流と名を馳せています。(”反り”がいいらしい)

たくさんお城を造って、集大成的に熊本城で極めたんやろなって思ったら、熊本城は清正が2つ目に手掛けたお城でした。

ではこの清正 a.k.a. 築城名人はいくつ築城したのか?
なんと全部で18基もありました!(隈本城は熊本城の前身)
当時は、自分が手がけた城に名前を掘るのがトレンドで、全国の清正作の城の石垣には「加藤肥後守内」と刻まれています。

天守閣の最上階(6階)の模型。

金箔の襖とか、もう落ち着いて寝られなさそう(笑)

籠城に強い城として、1階と小天守の地下に繋がるこの石階段にも、下の絵のように工夫が施されていました。

石階段の上部は木箱に切り替えられていて、いざっちゅー時にはこの木箱を取り外せば1階に上がれなくなる作戦!
これは地味だけど効き目アリ。

神社仏閣も含め、古い建築物を見るといつも思うのですが、重機もパソコンもない時代によくぞこんなものを造ったものだと。
石垣ひとつにしても、こんなに技術が詰まってる。そしてそれを人力で形にしてきたわけです。
またそれがモノによっては何百年も姿を残し続けるとか驚異ですよね。
昔の人は本当に偉いなぁ〜。
その叡智が、現代も受け継がれて私たちの暮らしの基礎になっていると思うと、なんだか有り難い気持ちになりますね。

熊本城には防御のための面白い仕掛けが色々あります。

城って権威を誇示するものではなく、要塞としての役割が本来の仕事。
なので防衛にも優れていなければなりません。

私がこの中で好きなのは「忍び返し」です(笑)

「石落とし」も地味な感じが嫌いじゃない。
でも実際には弓や銃での攻撃もここからしていたそうです。


細川斉護の斬新な兜。
遠目に見て「稲穂か?」と思ったら、山鳥の尾羽根でした。
こう見ると、私の好きな映画『STAR WARS』はほんとジャパナイズされてますよね。
甲冑って見たまんまダース・ベイダーだもの。ベイダー卿のメットに尾羽根は付いてないけど。
ジェダイは柔道着みたいのを着てるし。
でもルーカスフィルムじゃなくなってからなんかSTAR WARS熱が冷めちゃったんだよな〜。…ていうSTAR WARSファンは少なくないはずだ。
では天守閣最上階からの下界の景色をご覧に入れましょう。

天守閣の北の眼下にあるのは小天守。

天守閣の東の広場には、かつて、旧陸軍第六師団司令部がありました。
熊本城は近年まで、戦における施設であり続けたんですね。

瓦に桔梗紋が入っているのが確認できます。

この向こうに車を停めた駐車場があって、この道を歩いてここまできました。
街の姿や民の営みは変わっても、山並みは昔のまま。
この城が築かれた時代の人と同じ山の景色を見てると思うと、なんだか感慨に耽ってしまいますね。
妄想が膨らんで色んなこと考えちゃう。自分が城主だったらな〜…とか(笑)

「特別史跡」とは「国宝」と同格のもので、学術上の価値が特に高く、国の文化の象徴とするものに指定されるもの。
熊本城もそのひとつに数えられます。(現在再建された建築物ではなく、あくまでも”城跡”において)


ベスポジでの記念撮影はこちらで!
熊本城の復元整備計画に伴い、2007年熊本城築城400年祭のシンボルキャラクターとして誕生した「ひごまるくん」バージョン、僕も私も加藤清正公になれちゃう加藤清正なりきりバージョン、お好きな方でどうぞ。

城内の敷地はとても広く、天守閣以外にも見所はたくさんあれども、次の移動先である御輿来海岸はワケあって夕刻までに行かねばならぬので、無念ではあるがこれにて熊本城からは退陣!(あ、その前に加藤神社に寄る!)

神社には神社猫、お寺にはお寺猫がいますが、お城にもお城猫がいました。
もう1匹いたけど、影に隠れて撮らせてはくれなかった。今日はプライベートだからかな。

こっちが本物の甲冑と陣羽織かな?(兜はレプリカ?)
陣羽織もかっこいいのがたくさんあるけど、自分が着るなら猩猩緋(朱色)の陣羽織一択!
やっぱ派手で目立つし、赤は戦闘意欲が増してなんか燃えるし!(笑)
最後に御城印をば。

蛇の目紋と九曜紋がしかと刻印されております。
城はまだまだシロウトなんですが(城だけに…)、見学するたびに少しずつ知識が深まっていくもの楽しいし、戦国の世に身を投じて(妄想で)、この日本という国に更に愛着が湧いてきますね。
あと、史跡巡りをしていると、「なぜ学生の頃にちゃんと勉強してこなかったんだ」という少しの後悔が生まれます(笑)
信長の時代は「人間(人生)50年」、現代は戦国時代に比べ寿命は延びたとはいえ、自分が此処で生きていられる残り時間はそれほどたくさんは残されてない中で(健康寿命を考えたらもっと短いかね)、あとどれぐらい、自分の国と文化のことを知れるだろうか…とか、まあこの歳になると色々考えるわけです。
こうして後世に何かを遺した偉人のように、自分も少しでも爪痕を…(笑)
夕刻の時間が迫ってきました!
急ぎ、加藤神社へ!
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