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九州は福岡県の太宰府天満宮、前回は楼門の前で寸止めにして終わりました。
今回、いよいよこの楼門の向こうへと突入します。
御朱印はこちら↓
と、その前にこの楼門の見所をご紹介しましょう!
旅先では、”自分はなかなかにツイてる人間だ”と思うようなことがままあるのですが、今回の太宰府天満宮でもやはり良いタイミングに参拝しました!
普段は何も装飾されていないこの楼門ですが、毎年10月1日~31日までの期間、太宰府天満宮では特別受験合格祈願大祭として、登竜門の伝説に倣って「飛龍天神ねぶた」の装飾が施されるのです。
……これは例年のことなので知ってる人は知ってるし、行く前に調べたらわかることですが、だいたいの当てずっぽうノーリサーチ・ノープラン旅行が恒例の私はそんなことも知らなかったので、「自分やっぱ”持ってる”わ!」と自画自賛しました(笑)
その「飛龍天神ねぶた」の装飾はこんな感じ!
このねぶたの龍は、18時半〜20時の間はライトアップされて更に迫力マシマシ!
その様子は、こちらで紹介されていました。
楼門の柱には滝を登る鯉が描かれています。
龍と鯉、一体何の関係があるの?と思う方もいるかもしれないので簡単に説明しますと、登竜門というのは、成功への道の難関を突破することを指し、その由来は「鯉が険しい滝を登って飛龍になった」という中国の故事が元になっています。
鯉にとっては強くて見栄えもするあの憧れの龍のオジキのようになれるってことで、夢が持てる話ですよね!(何のこっちゃ)
6本の柱に描かれる鯉はそれぞれ違う色柄なのですが、中高生それぞれが持つ異なる個性をイメージして描かれたそうです。(ごめん、全部の柱の鯉撮ってない)
2020年に「飛龍天神ねぶた」のデザインが一新され現在のものになりました。
「飛龍天神ねぶた」がお目見えする期間には、特別受験合格祈願が斎行されており、特別御札、特別御守り、特別絵馬、掛け襟も頂くことができます。
太宰府天満宮の楼門を造ったのは、菅原道真公のひ孫の菅原輔正(すけまさ)で、その後、戦乱などで何度か焼失するも、戦国時代には石田三成も再建しています。しかし残念ながらそれもまた焼失。(三成も「せっかくお金かけて再建したのにー」って悲しんだと思う)
現在の楼門は大正3年(1914)に再建されたものです。
楼門の両サイドの格子の中によく見たら誰かいる!!何奴!!
この方々は随身(ずいじん)を模したお人形さん。
随身とは、平安時代以降の倣いで、貴族を護衛するお供の人のことです。
よーく見ると狛犬と同じように左の人は口を閉じた吽形、右の人は口を開けた阿形で、阿吽(あうん)になっています。
悪いものが入ってこないよう、随身さんたちが24時間セキュリティに努めているんですね。
また、太宰府天満宮の楼門は参道側から見ると2層になっていますが、拝殿側から見ると1層という珍しい造りになっているのも見所です。
さ、ではいよいよ1100年以上もの歴史を持つ、太宰府天満宮の本殿へ!(やっとか!)
天気にも恵まれ、広い瑞垣の中も参拝者で賑わっていました。
瑞垣の内側担当の狛犬さん。
ちっちゃな橋。
この橋は横に長い池の真ん中に架けられていて、橋の下は池の鯉が左右へ移動するためのトンネルになっています。
拝殿の前では氏子の方々なのか、大規模な何かの神事が行われていました。
結界も張られてるし、この状態では拝殿前で手を合わせることができないので後で参拝することにして、とりあえず周囲の物色でもしますかねーっと。
神職さんも拝殿の中に勢揃いして、これはなんか長そうだし……
あ、そうそう、神事が行われている間に、菅原道真公について蘊蓄をば。
菅原道真公は平安時代の貴族で学者で漢詩人で政治家。有能すぎて第59代・宇多天皇から可愛がられ、官位は従二位で右大臣に任じられ、没後に正一位(神職の最高位)で太政大臣となる。
……なんかわかんないけど凄い賢こくて、凄い位の高い人って覚えとけばいいと思います。(雑)
この菅原道真公、才覚がありすぎて周囲に妬む人が現れ、道真公を陥れようとします。その中心人物は左大臣の藤原時平(ふじわらのときひら)。(妬み以外にも理由はあるらしいが)「宇多上皇を欺き惑わした」だの、「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」だのと讒言(ざんげん。他人を陥れる嘘を言うこと)。これを鵜呑みにした第60代・醍醐天皇が、菅原道真公の子や宇多上皇の近臣らを左遷または流罪にしました。(何やってんだよ!情報はきちんと裏取りをしなくてはいけません!)
菅原道真公も降格され、左遷されたのがこの太宰府。
左遷後は政務もさせてもらえず俸給も与えられず、着るものも十分になく窮死。こでれは間接的に殺されたようなもの……
現在の太宰府天満宮がある場所は、元は菅原道真公の墓所でした。道真公の「(自分の)遺骸を牛車にのせて人にひかせず、牛の赴くところにとどめよ」という遺言により、荷台に乗せた亡骸を牛に牽かせてみたところ、この場所で蹲って動かなくなったということです。(其の壱参照)
延喜3年(903)のこと。享年59歳。
この5年後、菅原道真公を裏切った元弟子の藤原菅根が雷に打たれて落命、更にその翌年に藤原時平が39歳で病死。このへんから「これは道真公の呪いではないか!?」と道真怨霊化説が囁かれるようになり、延喜13年(913)には、藤原時平と結託して菅原道真公を失脚させた一人である右大臣の源光が狩りの最中に泥沼で溺死。そこから10後の延喜23年(923)、醍醐天皇の皇子の保明親王が薨御。
都では「この一連のことはやっぱり菅原道真の怨霊の仕業に違いない!!」と道真怨霊化説が濃厚になり、このままでは祟りが絶えんしヤバイ!と焦った朝廷は、道真公を従二位大宰員外帥から右大臣に復権、正二位を贈るに至ります。
平安時代には怨霊思想みたいのがあって、死者、特に冤罪により不幸な死を遂げたものは祟りを起こすと思われていました。というか、その人を死に追いやった人の罪悪感から、ちょっと不幸なことがあると「……これはもしかしてアイツの祟りではないか…?」と疑心暗鬼に陥って、そうなると悪いことは全て祟りって思い込んでしまうだけでしょうけど(笑)、とにかくそういう時代でした。
その場合の解決策としては、祟りを起こしてる(起こしてないと思うけど)その死者の冤罪を晴らしたり、復権させたりすることです。
そうしたからといって、その後、周りの人が誰も死なないというわけではないけど(人はいずれみんな死ぬし)、虐めたり死に落とし入れた人がそれで気持ち的に償った感じがしてスッキリするので、「解決した」って認識になるんでしょうね(笑)
ちなみに、日本三大怨霊というのがあって、怨霊の中でも特に恐ろしい力を持つとされる菅原道真、平将門、崇徳天皇の3人衆をこう呼びます。(それも彼らにとっては不名誉だから、また祟られる気がするけど笑)
最も、三大怨霊と名付けられたのは江戸時代頃からだそうですが。
読本や歌舞伎などのネタにはちょうど良かったでしょうね(笑)
菅原道真公は「天神様」や「天満様」とも呼ばれますが、死後に「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」という号を贈られたことに由来します。
名前の通り、天の神として仰がれ、太宰府天満宮は現在でも天神信仰の聖地となっています。
ではここで、なぜ太宰府天満宮の御神紋が梅なのか、こちらの蘊蓄を述べましょう。
拝殿の右には「飛び梅」と名付けられた梅の木が植えられています。
その名の由来には2つの説があります。
①
藤原時平の讒言によって左遷が決まった道真公は、故郷を離れるときに幼い頃より慕ってきた庭の梅に「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」と歌を詠み別れを告げます。
道真公のことが大好きだったこの梅は、道真公が太宰府に着くと一夜にして道真公の元へと飛んできた。
②
菅原道真公の父親と交流のあった伊勢の外宮の禰宜、度会(わたらい)春彦という人物が、道真公に会いに行く際に道真公の邸宅に寄り、庭の梅から根を分けたものと夫人の手紙を預かってきた。その梅を、道真公は「梅が飛んできた」ということにした。
私的には②の方が本当っぽいなぁと思いますが、梅が道真公会いたさに都からすっ飛んできたって設定の方が可愛らしい感じもあって嫌いではないです(*´∀`*)
②説に登場する度会春彦という人物は、外宮の禰宜でもありましたが、どうやら元は外宮があった場所に度会氏の氏神が祀られていたようです。外宮の造営と共に場所を移動した(”移動されられた”?)というのが濃厚そうな経緯で、外宮参道の入り口に世木神社という神社を造営し、神主を務めていました。
小さな神社なので見逃されがちですが、伊勢神宮の外宮へ参拝に行った際はぜひこちらの世木神社も寄ってみてください。
太宰府天満宮は参拝者が多い神社なので、絵馬掛けと御籤掛けが複数箇所に置かれています。
御神籤の色がミントグリーン(一昔前の表現ならエメラルドグリーンですかね笑)で綺麗。
授与所には様々な御守りが並べられていて、これは目移りしてしまう!(今回の太宰府天満宮では何もいただいてこなかったけど)
うそ笛、うそ鈴なんかもあります。
拝殿の左には橘が植えられていました。
橘には古くから邪気払いの力があるとされていて、あちこちの神社でよく見かけることができます。
えーっと……お察しの方もいるかもしれませんが、上記で散々説明した「飛び梅」ですが、写真を撮るのを忘れてしまいました。
かろうじて写ってるのがコレ。↓
右に見切れてる木です。
花が咲いてる時期ではないし、ただの枯れ木っぽい感じに写っています……
合格祈願の絵馬が風に揺れてカラカラと良い音を放っていました。
祈祷受付では親御連れが目立ちます。
まだまだ何らかの神事は終わりそうにない……
神職さんが履いている靴は「浅沓(あさぐつ)」といいます。
あまりにも綺麗に並べられていたので、つい撮りたくなりました。
浅沓を履いてる神職さんを見て、「スリッパみたいだし油断したら脱げそう」といつも思ってしまう。
こちらの御神牛さんは出張につき不在でした。
出張費ちゃんと出てるのかな?
神事が終わりかけ〜と思ったら、園児達が雪崩れ込んできて巻き込まれそうになったので退避。
ん?瑞垣の外に何かありそうだ……
直感が働いたので瑞垣の外へ出てみました。
そこは、摂社・末社が幾つも立ち並んでいて大渋滞!
その様子はまた次の記事で♪
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