九州地方

櫛田神社(くしだじんじゃ)・前編 〜福岡県福岡市〜


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九州シリーズのラストは、博多の総鎮守として崇敬される櫛田神社
節分には、楼門に大きなおたふくが設置されることでも有名な神社です。

櫛田神社 北神門

出勤途中のスーツの男性が足を止めて、鳥居の前で一礼をしていく姿もありました。
地元の人に親しまれてる神社、という感じがしますね。

『櫛田神社(くしだじんじゃ)』

所在地  福岡県福岡市博多区上川端町1-41
御祭神  大幡主大神(櫛田大神)

     天照皇大神
     素盞嗚大神(祇園大神)
社格   県社・別表神社
例祭日  5月3・4日(博多どんたく)

     7月1〜15日(博多祇園山笠)
     10月23日(博多おくんち)
鳥居   明神鳥居
社殿様式 権現造

【由緒】
社伝では、天平宝字元年(757年)、松阪(現・三重県)にあった櫛田神社を勧請したのに始まるとされ、松坂の櫛田神社の祭神の大幡主大神が天照大御神に仕える一族の神であったことから、天照大御神も一緒に勧請されたと伝えられる。天慶4年(941年)、小野好古が藤原純友の乱を鎮めるために京都の八坂神社に祈願し、平定した後に当社に素盞嗚神を勧請したと伝えられるが、平安時代末期、平清盛が所領の肥前国神埼(佐賀県神埼市)の櫛田宮を、日宋貿易の拠点とした博多に勧請したという説が最有力であり、櫛田神社の宮司らが編纂し1965年(昭和40年)に文部省(当時)に提出した『博多山笠記録』や1979年(昭和54年)に福岡市が発行した『福岡の歴史』でも佐賀県神埼市にある櫛田宮の分社とされている。
戦国時代に荒廃したが、1587年(天正15年)、豊臣秀吉によって博多が復興されるときに現在の社殿が造営された。
1868年(明治元年)の神仏分離令より前の江戸時代までは東長寺に属する神護寺が櫛田神社を管理していた。
1891年(明治24年)に県社に列した。(wikipediaより)

御朱印はこちら↓

御祭神の大幡主大神(おおはたぬしのおおかみ)とは大若子命(おおわかこのみこと)のことで、伊勢国松坂の櫛田神社から勧請された神様とされています。
大若子命造化三神天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の19世の子孫で、北陸地方で怪物を退治した伝説があります。
素盞嗚大神は、天慶4年(941年)に藤原純友の乱を鎮めるため、京都の八坂神社から勧請したという説がありますが、平安時代末期に平清盛が現在の佐賀県神埼市に現存している櫛田宮(くしだぐう)から勧請したのが有力で、天照大御神の合祀については、あまりにも古くてはっきりとしたことはわからないのだとか。

櫛田宮第12代・景行天皇(紀元前13年〜西暦130年)によって佐賀県神埼市で創祀された神社で、1965年(昭和40年)に櫛田神社の宮司らが編纂し文部省(当時)に提出した『博多山笠記録』では、櫛田宮からこの博多の櫛田神社に分社した説が用いらています。

佐賀県神埼市の櫛田宮のHPで確認すると、御祭神は櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)素盞嗚命(すさのおのみこと)日本武命(やまとたけるのみこと)の三柱になっていました。
社号の漢字からしても、御祭神は、大若子命(おおわかこのみこと)よりも櫛稲田姫命の方がしっくりくるんですよね…

伊勢市松坂の櫛田神社を調べてみると、小さめの社殿で本当にこちらから勧請を?という感想を抱きます。(そんなこと言ったら怒られそう笑)
ですが、佐賀県神埼市の櫛田宮はそれなりに立派で、規模だけで見ると、やはり松坂の櫛田神社から博多の櫛田神社に勧請した説はちょっと考えにくいかな…
更に、松坂の櫛田神社の御祭神は大若子命櫛玉姫命(くしたまひめのみこと)素盞嗚命天忍穂耳市杵島姫の五柱で、櫛田神社の社号にある「櫛」がつく神様に櫛玉姫命が名を連ねているものの、櫛玉姫命をメインでお祀りしている神社は、基本的に社号が「櫛玉比売命神社 」であり、奈良県を中心に全国に幾つか存在します。

扁額

私の頭の中にあることがうまく言葉にできず、伝わりにくいかもしれませんが(なんとなくニュアンスで受け取ってください笑)、松坂の櫛田神社の御祭神のメンツ自体が私にはしっくりこないのもあります。
素盞嗚命の嫁って、八岐大蛇退治の時に老夫婦に「退治してやる代わりに、交換条件で娘(櫛稲田姫命)をよこせよ」と約束してモノにした相手で、櫛玉姫命ではない。
櫛稲田姫命櫛玉姫命、漢字も響きも似ていますが、櫛玉姫命饒速日命(にぎはやひのみこと)の嫁なので(しかもマイナー)、素盞嗚命と一緒に祀られてるのがどうも気持ち悪い。
そして、初代・神武天皇神武東征で奈良へ行った時に抵抗した大和の指導者・長髄彦(ながすねひこ)を倒すのですが、この長髄彦を兄に持つのが櫛玉姫命なんです。
神武天皇素盞嗚命の子孫なんですが、自分の兄の仇の血を受け継ぐ者と一緒に祀られることは普通は考えられないんですよね。
歴史とは”勝者の歴史”なので、敗者である長髄彦一族は歴史から消される立場にあり、ましてや勝者と共に祀られるなんてことは普通は考えられない上に、敗者側の大和住みの櫛玉姫命(伊勢市松坂の櫛田神社)が、勝者のホーム(現在の宮崎県)に近い福岡に勧請されるのはやっぱりイレギュラー・オブ・イレギュラー、いやむしろあり得ない状態かなと思います。

なので、本来は佐賀県神埼市の櫛田宮から勘定したんだけど、歴史の途中で松坂の櫛田神社を知ってる人が「櫛田神社って松坂のでしょ?」なんて勘違いしたのが拡散されて、なんとなーくそういう説が定着してしまったのではないか、または意図して当時の宮司が「(なんか伊勢神宮のお膝元からきたって言ったら箔がつくから)伊勢に同じ名前の神社があるし、伊勢から勧請したってことでいいんじゃない?」と、歴史を捻じ曲げたのかもしれません。(すごい当てずっぽうだけど個人的に後者を支持)

博多の櫛田神社の後世の宮司たちも、「これって御祭神含め普通に考えて松坂から勧請ってなんかおかしくない?」と違和感を持ったから、1979年に『博多山笠記録』を編纂して、佐賀県神埼市の櫛田宮から勧請という説を正式なものにしたんじゃないかな?って思いました。知らんけど。

狛犬さんの姿勢がめっちゃ良かった。
鼻がシュッとしたスマートなタイプですね。

楼門に大きく掲げられた「威稜(いりょう)」の文字は、「天皇の威光」という意味。

御神灯の提灯も特大!

楼門の上を見上げると、そこには干支恵方盤が吊るされていました。

干支恵方盤

毎年の大晦日に、真ん中にある矢印が新しい年の恵方を指すように仕掛けが施されています。
訪れた時の2022年の恵方は北北西でした。

楼門の扉にある御神紋は「三盛亀甲に五三桐紋」ですが、櫛田神社の御神紋はこの他に「大和桜紋」と「木瓜紋」の2つがあります。
御神紋が3つあるのは、この櫛田神社に祀られる三柱のうち、大幡主大神(櫛田大神)の御神紋が「三盛亀甲に五三桐紋」、天照大御神の御神紋が「大和桜紋」、そして素盞嗚大神の御神紋が「木瓜紋」であるためです。

三盛亀甲に五三桐紋

本当かどうかわかりませんが、「木瓜紋」と胡瓜の輪切りの切り口が似ていることから、「博多っ子は祭りの間は胡瓜を食べない」という話があります。
神様を食べることになるからですね。

櫛田神社はこの年(2022年)、49回目の式年遷宮を迎えました。

博多の櫛田神社は戦国時代に荒廃し、後に豊臣秀吉が博多の地を復興する際に現在の社殿を造営したというから、なるほど確かに細々と見ると細工が凝ってたり飾りが多かったり、派手好きの秀吉テイストが盛り込まれてるような気もします。
建築様式が権現造で重厚な感じがあるのもそのせいでなかろうか。
あのお茶目な風神雷神も秀吉の遊び心なのかな?

手水舎

こういう灯籠なんかも奉納した年月日や名前を見ると面白いのでしょうけど、だいたいスルーしてしまうんだよなぁ。(手抜き)

お馬さんの蔵にも三つの御神紋。

神社に馬の銅像が多いのは、神様は馬に乗ってやってくるという古くからの伝承があるためです。
三重県の伊勢神宮、京都の上賀茂神社、大阪の住吉大社など、大きな神社ではタイミングが合えば神馬に会うことができますよ。

楼門の内側から振り返った風景

ここにも撫牛さんがいました。

撫牛

逆光で神々しくなってる。

櫛田神社の狛犬さんは2対です。

櫛田神社の御神徳は、商売繁盛と不老長寿。

よし、まずは拝殿へ。

拝殿

権現造はやはり重厚な感じがある!

真ん中の幕に、前述した3つの御神紋が入っていますねー。

左に緑色の天狗面、右に赤色の天狗面が4つずつ掛かっていました。

日本では猿田彦尊(さるたひこのみこと)は天狗扱いされていますよね。
古事記日本書紀でこんな描写があります。

高天原から天照大御神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)御一行が葦原の中つ国(日本)に降臨する際、道の先に長身で真っ赤な顔で鼻が高くて目が光ってる奴が現れ、同行してた天鈿女尊(あめのうずめのみこと)が「怖い怖い!そこで何してん!?」と尋ねると、「邇邇芸のアニキが下界へ行くってんで、道案内をして差し上げようと思って…」とその不気味な者が答えたので、「じゃあお願いしようかしら」(単純!)と、その猿田彦尊という神に道案内をしてもらうことになりました。

これにより、猿田彦尊は道案内の神様として今でも敬われるようになりました。
この出会いがきっかけで、天鈿女尊猿田彦尊は夫婦になるのですが、猿田彦尊の風貌が中国由来の天狗と似ているため、天狗と混同されるようになりました。…と、されています。

しかし、中国の”天狗”は現在思い描くような天狗の姿ではなく、流星が天の狗(=犬)の姿に時代と共に変化したものなので、日本人が思い描くような顔が赤くて鼻が高くて一本歯の下駄を履いて山伏っぽい服装をしてるようなものではないんですよね。
中国仏教は記紀の編纂より約200年前に日本に入ってきていますが、どこでどう変わったのでしょう?

奈良時代、修験道の開祖である役小角(役小角)がもたらした山岳信仰において、山伏が死後に行く魔界のひとつに「天狗道」というのがあるらしいので、これが前述した天狗像の発端かと思われます。(だとしたら、役小角がパイオニア?)

鼻の高い天狗の他には烏(からす)天狗や木の葉天狗というのもいたりして、平安時代末期に成立したと伝えられる『今昔物語集』では妖怪としての天狗の描写があるそうで、この時代は書物によって民の見聞が広がった時代でしょうから、天狗についても同様かと思われます。

基本的に天狗は空を飛ぶイメージで描かれますが、これはおそらく源流である中国での天狗が、吉凶を知らせる流星を意味していたことによると思います。
それを考えると、猿田彦尊は空を飛ぶ様子で描かれることはないため、後から猿田彦尊=天狗とこじ付けられた可能性が高そう。
鼻高天狗は、後から猿田彦尊に寄せたJAPANオリジナルなのかもしれませんね。

霊泉鶴の井戸

拝殿の前にある「霊泉鶴の井戸」。

昔は飲めたけど今は水質汚染が進んで飲めない、という霊泉はよくありますね。
これは飲用水の水質基準が昔より厳しくなったこともあるでしょうし、周囲に建物が立ったりして本当に飲める状態のものでは無くなったりもあるでしょう。

この立て看板の冒頭にもありますが、博多のあたりは昔は海だったようです。
例えば江戸も昔は今よりもずっと水位が高くて小舟で移動することが盛んだったことも現代ではわかっていて、日本全体的に今よりも水位が高かった(土地が今よりも狭かった)ことが想像できます。

そして今回、櫛田神社で見逃したのはこれ。↓

拝殿の破風の左右に木彫りの龍神と雷神がいるんですが、風神が「あっかんべー」をしているんだそうです。
どうやら雷神から逃げてる模様(笑)
そんなユーモアのある雷神風神はとても珍しいので写真に収めておきたかったー!
何しろ手早く写真だけ撮ってよく文章を読んでなかったんだな、私。
「とりあえず撮っておいて後から読もう」のやつ。ダメだな、その場でちゃんと読まないとな。

拝殿から振り返った風景

御朱印をいただきたいけど、早朝の参拝だったのでまだ社務所は開いていませんでした。
社務所が開くのを待ちつつ、境内を一周しに行ってきます。
後編へ続くー!



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