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広島シリーズ2日目は、all day in 宮島!
そうです、宮島といえばあの安芸国一宮・厳島神社です!
全国に約500社ある厳島神社の総本社で、ユネスコの世界文化遺産。大鳥居は国の重要文化財でもあります。
ここも絶対行きたかった神社なので、朝から楽しみで心が弾む!(あなご飯も)
まずは前情報をば。
『厳島神社(いつくしまじんじゃ)』
所在地 広島県廿日市市宮島町1-1
御祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
社格 式内社・別表神社
例祭日 旧暦6月17日
鳥居 両部鳥居(別名:権現鳥居)
社殿様式 寝殿造り
【由緒】
当社の御祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)と素盞鳴尊(すさのおのみこと)が高天原(たかまのはら)で剣玉の御誓(うけい)をされた時に御出現になった神々で、御皇室の安泰や国家鎮護、また海上の守護神として古くから崇信を受けられた。
宮島に御鎮座地を探されるにあたり、この島を治める佐伯鞍職(さえきのくらもと)に神勅が下った。鞍職は大神様が高天原から連れてきた神鴉(ごからす)の先導のもと、御祭神と共に島の浦々を巡り、海水の差し引きする現在地を選んで御社殿を建てたのは、推古天皇御即位の年(593年)であると伝えられる。
その後安芸守となった平清盛(たいらのきよもり)が当社を篤く崇敬し、仁安3年(1168年)に寝殿造の様式を取り入れた御社殿に修造した。清盛の官位が上がるにつれ平家一門のみならず、承安4年(1174年)に、後白河(ごしらかわ)法皇の御幸(ごこう)、治承4年(1180)3月と9月に高倉上皇の御幸(ごこう)があるなど、多くの皇族・貴族が参詣され、都の文化がもたらされた。
当社に対する崇敬は、平家から源氏の世になっても変わることなく、又時代が移り室町時代の足利尊氏や義満、戦国時代の大内家、毛利家などからも崇拝された。
松島・天橋立と並び日本三景「安芸の宮島」として知られ、平成8年(1996年)にはユネスコの世界文化遺産に登録され現在にいたる。
御朱印はこちら↓
干潮と満潮、両方の大鳥居を見たかったので、朝から夕方まで宮島で過ごすことは決定済み。
日によって干潮・満潮になる時間が少しずつ変わるんですが、タイミングよく朝と日没前に両方見れるという毎度の幸運体質(自称)の私、サスガです。
この日は9:54が干潮、17:25が満潮。日没が16:57なので、夕陽に照らされる海に佇む鳥居が見れるはず!
しかし、9時過ぎからその時間まで滞在するには時間を持て余しそうな…昼間のお仕事の勤務体制とほぼ同じですからね(笑)
まぁでもとりあえず出発!
広島駅から宮島までは約1時間。
山陽本線でJR宮島口駅まで行き、そこからフェリーで宮島に渡ります。
さて、船に乗るか〜と乗り口へ行くと、時刻表もゲートも二つあってどちらが何でどちらに乗れば良いか一瞬戸惑いました。
案内の方に聞くと、どちらも料金は同じで運航している会社が違うだけだというので、すぐ乗れそうな方(JRでした)を選び、往復のチケットを購入しました。
後で調べてみると、主にJR宮島口駅〜宮島桟橋間を行き来しているのは、JRが運営するJR西日本宮島フェリーと、宮島の企業が運営する宮島松大汽船株式会社でした。(正確にはもう1社ある)
この宮島松大汽船株式会社は広島電鉄グループ(私が好きな広電!)。
この2社は5分違いでどちらも15分おきに出航してるので、利用する側としてはそんなに待たずに済むしありがたい話です。
でも抑もなぜ2社?1社にすればいいのに…
とか色々考えていたのですが、この2つの渡航路線は元は地元の実業家が起こしたものだそうで、一方をJRが、もう一方を広電が買い取ったので、2社に分かれていとのことです。
昔は喧嘩もしたけど今は仲良くやってんのかな…とか妄想しつつ、広島湾の潮風を浴びながら景色を堪能。
雲も殆どない快晴!
これは綺麗な夕陽と大鳥居が見れそうだ。
宮島桟橋に到着。
お!あれはライバル会社の宮島松大汽船!
いや、別にどちら側の味方もでないけど。
はい、宮島上陸ぅー!
なんか太陽が近い感じがする!
それぐらい晴天!
ここから参道かな?
空の青と海の碧、清々しい景色。
なんか落ち着くわぁ。
あそこに見えるのは大鳥居だな!?
宮島ブルワリーさんの横にスタバ。
こういう観光地とか名所の一等地にはだいたいスタバがありますね。
太宰府天満宮の参道にもあったし、地元の北海道神宮のすぐ近くにもスタバがあります。
コメダ珈琲さんとか国内の企業の店舗の方が個人的には望ましいなぁと思ったり。
裏参道商店街はまだ開店前。
もうじきこの通りも観光客で賑わうんだろうな。(自分もそのひとり)
第一狛犬さん。
一の鳥居前に黄色の帽子とか緑の帽子とかの小学生らしき団体が!
子供達に巻き込まれそうになるのを早歩きで回避!
よし、刺客を引き離したようだ。
参道はまあまあ長いですが、景色や鹿を見ながらなので飽きません。
こんなふうに、木陰にまだ若い雄鹿がくつろいでいたり。
人慣れしてるのか近づいても逃げません。
逃げないどころか「どしたん、話聞こか」ぐらいな雰囲気出してくる。
もぐもぐしてたから口が曲がってるタイミングで写っちゃったり。
可愛い(*´ω`*)
顎だけ白いのも可愛い(*´ω`*)
そーっと手を伸ばしてみたのですが、なでなでさせてくれました。(もぐもぐしながら)
生き物がいるとほっこりするし、夢中になってしまいますねー。
宮島の鹿は奈良の鹿のように「神鹿」というイメージがあまりないのですが、それもそのはずで、奈良の春日大社のような神鹿伝説が存在しないためでしょう。
カラス(御鴉)がこの地に厳島神社を建てる導きをした、という伝説はあるのですが、鹿については厳島神社にまつわるものはなさそうでした。
ただ、江戸時代あたりから宮島そのものが「神の島」と呼ばれるようになったことで、宮島の鹿が神鹿化されたっぽい感じがあります。
はるか昔、本州と宮島は陸続きでしたが、水位の上昇によると思われる宮島の離島化が起こり、宮島に残され孤立してしまった鹿たちがこの子達のご先祖のようです。(一方、対岸の鹿たちは生息が途絶えたもよう)
宮島の鹿たちは奈良から持ち込まれたという説がありますが、遺伝子レベルの研究で、この子達は広島と山口の個体群に近い宮島固有の歴史を持つ個体と裏付けられています。
とかなんとか言ってたら、大鳥居に着きました!
干潮につき、社殿の足元はカラッカラです。
早速降りてみよう!
大きいとは聞いてたけど、思ってたよりも大きかった!
木造の鳥居としては日本最大で、国の重要文化財に指定されています。
よくこんなところに社殿と大鳥居を建てようと思ったよね〜。
飛鳥時代の宮島の豪族、佐伯鞍職(くらもと)という人物が市杵島姫命からの神勅で、神鴉(ごからす)の先導の元、ここに社殿を建立することになったのですが、現在の社殿と大鳥居の姿になったのは、その後の時代の仁安3年(1168年)、安芸守となった平清盛によってだそうです。
厳島神社の社殿の造りは、回廊で寝殿を囲む寝殿造を用いたもの。
平清盛はこの平安時代のトレンドを取り入れ、しかも潮が満ちても水没しない程度の高床にして「海上社殿」を実現しちゃうなど、結構トリッキーな発想をする人だったのかなと勝手に想像します。
「大鳥居とか海にバーン!!ってやっちゃわない?やるなら安定性も必要だから両部鳥居にしないとねー」なんて言ってたのかもしれん。
社殿の杭は普通に打ち込めたとしても、大鳥居を建てるにはこの大きな柱を海底に沈めなければなりません。
そんなの現在ならいざ知らず、昔の人がどうやって??
…と思ったら、厳島神社の大鳥居は埋まってはいませんした!
ではどうなってるの?
答えは、浮かせてるのでも何かで固定してるのでもなく、ただ置いてあるそうです(笑)
_人人人人人人人人_
> 置いてるだけ <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
この事実を知った時、軽く衝撃が走ったのですが、もっと細かくいうと、それぞれの柱の下には松の木の杭が打ち込まれていて、その上に置いた大鳥居の安定性を高める工夫がなされているそうです。
今みたいに重機とかない時代のそういう技術とかってすごいなぁって思います。
「いや、とはいえ大波とか大きな地震とかきたら流されたり動いちゃったりするんじゃないの?」と思いますが、なんと重さが60トンもあるそうなので、動かざること山の如しレベルでそう簡単にはブレないっぽい。
この重みの一部には、鳥居の島木(一番上の部分の黒いのが乗っかってる部分)が空洞になっていて、そこに詰め込まれた276個の石が一役かっています。
昔はこの石ひとつひとつに般若心経が書かれていたらしい。(276という数字は般若心経の文字数)
そのことから、当時は平清盛presentsのこの厳島神社の社殿も、神仏習合の元に建てたことがわかります。
わー!小さな貝殻がたくさんあって可愛い!
と思ったら、コレみんなヤドカリ達でした!
可愛い(*´∀`*)
潮が引いて、至るところでたくさんのヤドカリがちょこちょこ動いていたので、足の踏み場に困って、なるべく接地面を爪先だけにして歩きました(笑)
あとこのぷよぷよは何でしょうか!?
多分クラゲ的な生き物かな?
カツオノエボシみたいに綺麗だけど強い毒を持ってるのもいるので、素手で触るのはやめておきました。
一人で生き物を見てはしゃいでるオバハンの画…
余談ですが、由緒にある神勅を受けたという佐伯鞍職は、佐伯部(”部”は”品部”のことで、人々の集団や組織を指す)の「佐伯」がそのまま苗字となっているのですが、この佐伯部の人たちは、景行天皇の時代に播磨国、讃岐国、伊予国、豊後国、そしてこの安芸国に配置されました。
で、実は、皆さんご存知の空海 a.k.a.弘法大師は香川出身なのですが、この讃岐国の佐伯氏の末裔なのです。
そんな空海が長安へ渡る許可を得られたのは、当時、朝廷にいた佐伯今毛人(さえきのいまえみし)のネームバリューの恩恵があったとかなかったとかっていう話もあります。
今回は広島シリーズですが、偶然にも次回は四国シリーズなんですよー。
ここで空海へと繋がるのかぁと、少し面白く感じたり。
基本的に神社専門なのでNOお遍路ですがね(笑)
大鳥居の主柱(しゅばしら)と袖柱(そでばしら)の下部の土色っぽい部分はただの海泥によるものと思ったのですが、近くでよく見たら全部フジツボでした!(笑)
びっしりとフジツボが大渋滞!!(笑)
木造なのにずっと水に浸かってて腐んないのかな?という疑問があったのですが、意外とフジツボが腐敗を防いでいたり!?
そもそも、この主柱は耐久性と耐水性が高く、防虫効果も高い楠が使われているので(袖柱は杉)、腐りにくい性質があるとのこと。
それでもやはり木なので時間が経てば朽ちます。
よって、近年では傷んだ部分を新しい楠に取り替える「根継ぎ」が行われたりしているそうです。
厳島神社の社殿側から見ると、扁額には「伊都岐嶋神社(いつきしまじんじゃ)」と書かれていますが…
反対側(海)から見ると「嚴嶋神社」の文字になっています。(逆光で見えにくい)
御祭神の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の名前からして、創建当初は「伊都岐嶋神社(いつきしまじんじゃ)」と表記されていたのでしょうか。
それが後に「厳島神社」になったのかな?
「厳」という文字には「おごそか」という意味があるので、神がいる厳かな島というイメージを掛け合わせて「厳島神社」とするようになったのでしょうかね。
ついでにいうと、厳島神社に祀られている三柱の神様は、前回までのシリーズ、福岡県の宗像大社に祀られる宗像三女神の三柱と同じです。
古さからいって宗像大社から厳島神社へ神様が勧請されたのは明白ですが、広島と福岡には不思議と繋がる部分がいくつかあって、広島県の加計町もその一つかなーなんて、宗像大社の記事で考察していました。
宗像大社がある現在の宗像市からは場所は南下しますが、豊後国にも佐伯氏の豪族がいたので、やっぱりこの辺りと広島は関わりが深そうです。
同じような写真何枚も要らないけど、何枚も撮ってしまう癖があります。
ここからでは社殿に入れないので参道に戻ります。
同じ鹿なのに茶褐色のと鹿の子(かのこ。白い斑点)模様のあるのがいます。
これは夏毛と冬毛の違いで、春夏は鹿の子模様、秋冬は右の子のような地味な色に生え変わるのです。
鹿の子は子鹿のイメージがありますが、大人になってもオスメス関係なくみんな春夏には鹿の子模様の体毛になります。
私が訪れたのは10月後半だったので、鹿にとっては毛の生え替わりの微妙な時期だったのでしょうね。
ちなみに鹿の子の斑点の現れ方は二つとして同じ模様はなく、個体によってオリジナルな模様を持ちます。
唯一無二やな。
狛犬3対目。
社殿の手前に神馬がいましたー♪
…と思ったら模型かい。
昔はちゃんとお馬さんがいたんでしょうね。
寄り道して道草食ったりしながらやっと社殿の入り口に到着。
見ての通り、私が草をたらふく食べてる間にこんなに観光客≒参拝客が増えてました。
写真を撮ろうにもこんな感じで知らない方が相方っぽく写り込んでしまうぐらい。
今回はここまで!
次回は社殿の中をうろつきます!
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